葉山の対話 2023ー2025 27
水沢勉さん Tsutomu Mizusawa
水沢勉
美術史家、キュレーター。神奈川県立近代美術館前館長。1952年、横浜生まれ。 1978年、慶應義塾大学大学院修士課程修了後、神奈川県立近代美術館に学芸員として勤務。 2006~2008年、横浜トリエンナーレ2008 「タイムクレヴァス」の総合ディレクター。 2011年より神奈川県立近代美術館館長に就任。2024年に退任。モダニズムを中心に、日本の近現代美術、同時代の世界との関係などに関心を持つ。
著書に『この終わりのときにも 世紀末美術と現代』(思潮社、1989年)、共編著に『モダニズム/ナショナリズ
ム 1930年代日本の芸術』(せりか書房、2003年)、訳書にクリスティアン・M・ネベハイ『エゴン・シーレ スケッチから作品へ』(リブロポート、1993年)などがある。
収録:2025年1月22日 @神奈川近代美術館 葉山
編集:長沼敬憲 Takanori Naganuma
長沼恭子 Kyoco Naganuma
山川麻美 Mami Yamakawa
撮影:井島健至 Takeshi Ijima @神奈川近代美術館 葉山
―― 水沢さんは、美術館にどのくらいお勤めされたんですか?
水沢さん 神奈川県立近代美術館に入ったのが1978年ですから、去年の3月31日に退館するまで46年間です。
―― 46年、半世紀近いですね。
水沢さん 長すぎますよ(笑)。バブルの頃から世界中のキュレーターの存在感が変わって、どこの美術館にも所属していないインディペンデント・キュレーター、そのなかからスター・キュレーターたちが現れたんですね。
日本のキュレーターたちもその影響を受けていて、南條史生さんにしても、長谷川祐子さんにしても、こうした新しい世代のキュレーターですが、僕は本当に古いタイプです。
僕は鎌近(神奈川県立近代美術館)という戦後最初にできた公立の近代美術館の学芸員としてやってきて、(国立の美術館は)途中で独立行政法人になったけれど、神奈川は公立のままだったので、ずっと教育委員会の所属でした。
なんとなく教育委員会の美術館って地味でしょう?
きょん2 地味なんですか?
水沢さん 教育委員会って学校が優先で、美術館には予算がつかないところがあるんです。(作品の)購入予算をちゃんとつけてあげればいいと思うんだけど、僕の先輩の館長の一人は、「だからいいんだよ。自分たちの工夫でやりたいことをやればいいんだから」ってよく言っていました。
だから、金がないのはいいぞって(笑)。 ——
―― そもそも、美術の畑にはどういう背景で?
水沢さん 家庭環境から言うと、僕は横浜の日吉で育って、父親は自動車のデザインをしていたんですよ。
父は完全な理科系の学生で、自動車会社に就職後、不思議な縁があって、あの有名な工業デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロと親しくなったんです。
いすゞの名車「117クーペ」のエンジンデザインなど、車好きな人なら絶対知っている存在で、エンジンのデザインをしていた父は、彼がデザインした車にエンジンをどう一体化させるか? この点をテーマにしていたようです。
―― エンジンのフォルムもデザインなんですね。
水沢さん そう。だから、父は(ジウジアーロの拠点だった北イタリアの)トリノによく行っていました。
当時(1960年代)、気軽に外国に行けるような時代ではなかったんですが、(帰国するたびに)ジウジアーロからもらった画集とか、彼がデザインしている雑誌を持ってきてくれて。それが本当に素晴らしかったんですね。
―― 美術に目覚める原点になった?
水沢さん たとえば、ヒエロニムス・ボッシュとか、常軌を逸した人なんだけど、彼が描いたすごい宗教画なんかが雑誌にフィーチャーされていて、それを見た時、「こんなに絵画って面白いのか」って思ったんです。
父は理科系の人だから「美術をやりなさい」とは全然言わなかったし、僕自身も小学生の頃は数学とか理科系のほうが得意だったんです。でも、(そういう雑誌を)見ているうちに心惹かれて、目覚めたんだろうなと思いますね。
キュレーター
日本ではキュレーター(curator)を「学芸員」と翻訳。
近年では、「情報から価値を取り出し、社会に提示する存在」も、キュレーターと呼ばれている。
ジョルジェット・ジウジアーロ
117クーペ
「折り紙細工」と呼ばれる直線とエッジの利いたデザインで、1970年代を中心に一世を風靡。
ヒエロニムス・ボッシュ
「快楽の園」(1490〜1500年頃)
―― 将来の進路として、具体的に意識しはじめたのいつくらいだったんでしょう?
水沢さん これはたまたまですが、中学から日吉を離れ、(鎌倉の)大船にある栄光学園というカトリック系の学校に入り、高校卒業までの6年間を過ごしました。
その間、いろいろ反発するところもあったけれど、僕にとっては10代の時期の6年という時間がよかったんです。
―― この6年間でいろいろなものが醸成されて……。
水沢さん そう。だんだん勉強が嫌いになって(笑)。(中学)受験までは結構勉強していたんですけど。
―― 中高一貫ということもあって、ちょっと開放された面も?
水沢さん それもありましたね。小学校5年生頃は、親が「渋谷へ映画を見に行こう」とか言っても、「いま、数学の勉強をしていて、10問解くまでは行けません」って親を待たせるような、そんなタイプだったんですよ。
そのぐらい勉強することに夢中になっていた時期があったんですが、栄光学園はイエズス会の学校で、入ったらカトリックの色がすごく強いわけです。僕は信者ではなかったけど、ある意味、文化的なショックを受けたんです。
―― キリスト教文化に触れたということですか?
水沢さん 中学3年生ぐらいまでは理科系だったんですが、キリスト教文化を知って、それをもっと知りたくなって、いろいろと読書することで一気に文学のほうに傾いてしまって。
「ドストエフスキーやトルストイは全部読むぞ」というふうになって、『戦争と平和』、『アンナ・カレーニナ』、『罪と罰』、『カラマーゾフの兄弟』とか全部読んだんです。
そうしているうちに、高校進学が近づいてきて、「理科系か文科系か選びなさい」って先生に聞かれたとき、「僕は文化系に行きたいです」って言ったんです。
―― 理系から文系へ切り替わったんですね。
水沢さん 父親が認めてくれるかなって思っていたら、「いいじゃん、いいじゃん」って(笑)。「お前、森鴎外は全部読んでいるか? 『即興詩人』だけは読んでおかないとダメだぞ」とか、父親もそういうタイプの人だったんですね。



葉山館・レストラン「 オランジュ・ブルー」のテラスにて。
―― いいですね。文学の影響もかなりありそうですね。
水沢さん すごく大きいですね。僕はその頃、哲学者のキルケゴールに夢中になっていて、『死に至る病』とか『あれか、これか』とか読んでいたんです。
キルケゴールは『あれか、これか』をスケッチのように書いていて、でも、読んでいっても、どっちをよしとしているのか? そこがよくわからない。「キルケゴールは、みんなを迷子にさせる」って、さすがに思ったんだね(笑)。
だから、人生の諸段階を美学的、倫理的、宗教的の3段階に分けようと思って、ちょうどそのとき国語の授業で「源氏物語」の感想を書くことになったんです。
国語の先生は、いい先生だったんですよ。カトリックの考えで言ったら、「源氏物語」は官能的で、一番困る世界じゃないですか(笑)。でも、みんな楽しもうよって。
それもあって、「美学的段階として源氏物語を読む」っていう感想文を書いたら、みんなの前で取り上げてくれて、「何が言いたいか全然わからないけど、すごく面白い」ってほめてくれた。それがすごく嬉しくて。
―― いやあ、面白いですね。
水沢さん そんなことを言ってくれた先生は、それまで一人もいなかったからね。それで、その先生のところに行ったら、「君、将来はどうするの?」って。そこで初めて「人生をどうするか?」ということを聞かれたんです。
―― それまで進路はどう考えていたんですか?
水沢さん 「文学系の大学にどこか入れたら、そこから考えればいいかな」と思っていました。でも、その先生に直に質問されたので、僕は迷わず、「宗教学は無理だから、芸術・美学か倫理学、どちらかを選びたい」って答えたんです。
先生が「そんなものを選んで職業はどうするんだ?」って聞いてくるので、「美術史か、美術の評論を書いてみたい」って言ったんです。そしたら、「そうか。君ならできるかもしれない」って言ってくれたんですよね。
―― 否定されなかったのはすごいですね。
水沢さん それはすごく大きいですよね。本当に感謝しています。それで自信を持って、「国語の先生からもそう言われた」って親に話したら、父親がいきなり「倫理はやめなさい。お前には倫理学は無理だ」って言うんです。
父親とは、子どもの時から画集を一緒に見ていた経験もあるから、「美術史をやれば?」って言ってくれて。だから、18歳くらいの時、もう進路に迷いはありませんでした。
あれか、これか
キルケゴールのデビュー作(1843年)。「あれか=美的」「これか=倫理的」を指す。
―― 結果として、周囲の大人が導いてくれたんですね。
水沢さん 自分のなかではっきりしていないまま、なんとなく思っていることを僕が言うと、「そっちのほうがいいよ」って言ってくれたっていうのが大きいね。
それで慶應の美学美術史科に入って、そこでの先生たちとの出会いもすごく大きかった。鎌倉の近美にも慶應出身の先輩学芸員がいて、そういうつながりもありましたし。
―― 慶應の校舎は日吉でしたね。家から近かったんですか?
水沢さん そうです。本当に歩いていけるくらいの距離でした。
文学部の場合、日吉キャンパスに通うのは1年間だけだったので、2年からは三田のキャンパスに通っていましたが、その頃は学費闘争でめちゃくちゃで……。
―― ああ、学生運動の頃? 70年代の初頭ぐらいでしょうか?
水沢さん そう。最後の頃ですね。慶應にも機動隊が来て、学生は石を投げたり、火炎瓶を投げたりしていました。だから、ほとんど授業はなくて。でも、それも良かったですね。
―― 当時、進路はどう考えていたんですか?
水沢さん 大学に入って、学芸員って仕事があることを知ったんです。それで、学生運動の渦中でも、社会教育学とか博物館学とか、資格取得に必要な単位は確保されていたので、授業を取っていったら取れちゃったんですね。
―― 仕事で美術に携わることには、どんなイメージを?
水沢さん いまの状況からは考えられないけれど、70年代の頃って現代美術と近代美術の境目がなく、現代美術館と呼ばれるものは一つもなかったんです。
僕が学芸員になった1978年の頃、東京にあった美術館で近代、現代美術を扱っていたのは、竹橋の国立近代美術館、いまはアーティゾンになっているブリヂストン美術館、それと鎌倉の近代美術館、3館しかなかったんですね。
―― 学芸員としては、そのあたりが選択肢に?
水沢さん そうそう。これもいまでは考えにくいけれど、その頃はまだ人づてで、みんな紹介されて入っていくわけです。国立近代美術館なんかは、国のエリートのお役人の息子とか娘とかが入っていっちゃうんだよね。
―― 縁故的な就職が多かったんですね。
水沢さん 公募しているとは言うのだけど、実際はそうじゃないんですよ(笑)。僕も、ブリジストン美術館の館長の嘉門安雄さんが叔父の友人だったから、同じようなことしているわけですが……。
その嘉門さんが(鎌倉近代美術館の館長を務めていた)土方定一さんと仲が良かったから、嘉門さんから紹介される形で、土方さんに会いに行ったんですよ。
―― 土方さんはどんな方でしたんですか?
水沢さん 不思議な人だったね。僕はブリューゲルの本が一番好きで、それはしっかり読んだつもりだったんだけれど、彼は僕の修士論文でエゴン・シーレについて書いているのを見て、「ルドルフ・レオポルドの本は読んだ?」って聞くんですよ。
エゴン・シーレの個人コレクターにルドロフ・レオポルドという人がいて、レオポルド美術館がウィーンにある。そのレオポルドの本が1970年代初めぐらいに出ていて、僕も修士論文でそれについて書いているわけです。
―― 土方さんは、そこに目を留めたんですね。
水沢さん 土方さんは大先生なのに、まだ青臭い修士論文を書いたばかりの僕に対して、「ルドルフ・レオポルドはどうなの?
いい本なの?」って聞いてきたんです。
それはすごく嬉しくて。「土方さんもシーレを評価しているから、そう聞いてきたんだな」と思った。シーレはその頃から本当の意味で評価されはじめていたけれど、それまでは変態のエロティックなダメな画家ってことになっていたから。
―― そのご縁で鎌倉の近美に?
水沢さん いや、神奈川県はブリジストンより厳しくて、一般公務員試験を受けないといけなかったんです。
その時のエピソードでちょっと嬉しかったのが、試験を受け、正式な採用の連絡が来たので、お菓子を持って土方さんのところへご挨拶に行ったんです。土方さんはその時点でもレジェンドみたいな人でしたけれど、まだ学生だったほやほやの僕に、この時も打ち解けた感じで話をしてくれて。
―― ちゃんと接してくださるんですね。
水沢さん 土方さんは特にそういう人だった。ガチッとした組織の人じゃなくて、そこが面白かったですよ。
国立近代美術館
東京国立近代美術館(MOMAT)
www.momat.go.jp
ブリヂストン美術館
アーティゾン美術館(旧ブリヂストン美術館)www.artizon.museum
嘉門安雄さん
1913〜2007年。西洋美術史家。 国立西洋美術館の設立に関わり、ブリヂストン美術館、東京都現代美術館の館長を歴任。
土方定一さん
1904〜1980年。日本初の公立近代美術館の基礎をつくったパイオニア。日本の近代美術を「歴史」として体系化した。
エゴン・シーレ(1890〜1918年)
20世紀初頭のウィーンで、師であるグスタフ・クリムトの影響を受けつつ、独自の表現を切り拓く。スペイン風邪により28歳で早逝。没後、ルドルフ・レオポルドが私財を投じて300点もの作品を収集、1972年、作品目録の出版を機に再評価される。2001年、レオポルド美術館が設立。作品は《ほおずきの実のある自画像》(1912年)。
―― 就職した当時、学芸員としてこんな仕事をやりたいという、抱負は持っていたんですか?
水沢さん シーレのような、自分の憧れていた作家の展覧会ができればもちろん素晴らしいけど、そんなことはいきなりはできない。だから、鎌倉近美でやっている展覧会を手伝いながら、自分のやれることを探っていく時間が多かったですね。
―― その後、シーレとのつながりは生まれたんですか?
水沢さん その頃、レオポルドがシーレのコレクション形成に夢中になっていて、毎月、何千万という借金をしながら作品を買い集めていたんですよ。
彼はもともと眼科医で、それも旧貴族の人たちだけを患者にする医者だったから、ある程度の高額収入はあって。シーレの絵があるって聞くと車を運転して、絵を持っている人の家の前に車を停めてずっとそこで待っている(笑)。
普通はシーレを持っているなんて公表しないですよね? でも、彼にはいろんなネットワークがあって、すごく有名な医者でもあったから信頼もされて、「その作品を私が買いたい、コレクションにしたい」と交渉したんじゃないかと。
―― そんなシーレが日本とどうつながって……。
水沢さん 彼は借金もしているから、「日本でシーレ展をやりたい」って言い出したんです。その頃だと一館1000万ぐらいの企画料を取れたので、日本で6館ぐらい回せれば、それがコレクションの一部資金になりますよね。
―― その話を最初に聞いたとき、どういう気持ちだったんですか?
水沢さん 「絶対に会いに行こう」と思いました。それ以前に自分の個人的な調査や勉強でウィーンに行った時、ウィーンの美術館などで関係者に会うと、シーレに関することではレオポルドのことが話題になるじゃないですか。
「レオポルドに会いたいし、コレクションも見たい」と言うと、学芸員が「私も会うのに数年かかったんだから、滞在中に会おうなんて無理よ」って。だから、レオポルドに会うなんて、人生のなかでないかもと思っていたんです。
―― でも、思いがけず話が来て。
水沢さん そう。1984年ぐらいにシーレ展の話が出て、85年にウィーンに会いにいくという流れになったんです。
―― 念願かなってお会いできたのですね。
水沢さん レオポルドの家は、ウィーン郊外のワインの産地で、ベートーヴェンのゆかりの地でもあるハイリゲンシュタットという高級住宅街にあったんです。
まだ30歳を過ぎた頃で僕も若かったから、東京新聞の敏腕の企画部長が一緒に行ってくれて、彼の自宅で「展覧会をどうつくるか?」という話を詰めたんですよ。
―― すごいですね。
水沢さん 驚いたのは、シーレ展なのに、シーレの先生であったクリムトの絵を最後に1点追加で借りられたことですね。
クリムトが最後に描いた「死と生」というすごくいい絵があって、それをレオポルドが手に入れたという情報を聞いていたので、その1点のためにあと3000万払うって交渉したんです。当時と比べていまの仕入れ評価額は10倍なんていうレベルじゃないから、あんな展覧会はもうできないかもしれない。
―― やはり感慨深いものがあったのでは?
水沢さん シーレの作品そのものは、ウィーンの美術史美術館やベルヴェデール宮殿でも見ることができたし、1979年に西武美術館でもシーレ展をやっているんですよ。
それはレオポルドではなく、サバスキーという人のコレクションですが、そういう積み重ねのなかで、86年にレオポルド・コレクションをまとめて鎌倉に並べられたんです。
(シーレ展覧会を)鎌倉でやれたということが、僕にはちょっと信じられなかったですね。
神奈川県立近代美術館・編集
「エゴン・シーレとウィーン世紀末」
(東京新聞 1986年)
① 「啓示」(1911年)
②「死せる街Ⅲ」(1911年)
③ 「ヴァリーの肖像」(1912年)
グスタフ・クリムト「死と生」(1908〜1911年)
―― そもそも、シーレ作品とはどう出会ったんでしょう?
水沢さん シーレの作品って、ドローイング(素描)にすごくインパクトがあるでしょう? 日本でもポツポツとドローイングは紹介されているんですが、僕にとって一番インパクトが強かったのは美術館に就職する前、1970年頃に東京の青木画廊でオリジナルを見せてもらったことですね。
また、翌71年には国立西洋美術館がニューヨーク近代美術館が持っているドローイングを展示したのですが、そのなかにシーレの作品が3点選ばれていて。
―― なるほど、学生の頃に。
水沢さん その頃にオリジナルを目の当たりにできたのは、決定的な経験だったと思いますね。
―― シーレのどこに惹かれたんですか?
水沢さん シーレ自身の資質として、ものごとを鋭く把握して、それを綺麗事にしないで一発の線で描くんですね。
失敗していることもじつはよくあるけれど、失敗した線をまた利用する。音楽家の即興演奏って、きれいに演奏するだけでなく、外しちゃった音も利用したりするでしょう?
シーレはまさにそういう人で、即興性、キレ味、鮮やかさ、そういうものがドローイングにはっきりあって、それに色やウォッシュを添えたりしている。
本当のインプロビゼーションというか、そういう作品をいくつか見てシーレが好きになりました。
―― ドローイングは即興演奏なんですね。
水沢さん 僕自身、音楽がめちゃくちゃ好きで、アンサンブルや演奏も下手の横好きでやっていたので、そうするとどうしてもウィーンという文化圏が浮かんでくる。
イタリアでもドイツでもなく、ウィーンやザルツブルクにずっと関心を持っていたことも大きかったですね。
「スケッチブックの一葉」(1912年)
―― 水沢さんは民藝についても本を書かれていましたが、日本の美術に関してどんな思いがありますか?
水沢さん 民藝はもちろん、そういう工芸などの無名性の表現はやはり大好きです。古いものもすごく好きなので、キリスト教や仏教のようないろいろな宗教を経て、形が整えられていくバリエーションに興味があります。
―― そういう現象には普遍的な何かがありますね。
水沢さん 民藝的なものは、もう洋の東西は問わないですね。土を焼いてつくったりするなかで生まれてくるものに対する関心も、僕のなかで強かったんです。
シーレには高校時代に出会っていたけれど、カトリックの学校にいたから、やっぱりキリスト教の枠組みに縛られていたなって、大学で美学美術史を学んで気づきました。
だから、卒業論文では、ウィーンに象徴される西洋的なものからいったん離れ、仏教美術ついて書いたんです。
―― シーレの研究はそのあとなんですか?
水沢さん 大学院時代ですね。学部時代の先生は、「大学院行ったらなんでシーレなんだよ」って怒っていたけれども、僕にとってシーレは高校生のときから憧れていたもので、でも、それでは自分の視野が西洋に縛られすぎてしまう……。だから、「シーレに戻らなくちゃ」とは思っていました。
―― 仏教美術に関心を持ったのは?
水沢さん 意識するようになったのは、学部学生になってからですね。中学、高校の時、修学旅行が東北で、東北にももちろん仏教、神道はあるけれど、どちらかと言うと、自然の美しさをみんなで味わうという感覚になりますよね。
だから、(大学に入って)仏教美術に触れたことが、僕にとってすごく大きな変化だったんです。
―― 日本の近代美術についてはどうでしょうか?
水沢さん それまで自分の視野に全然入ってなかったんですが、鎌近に入って、松本竣介、梅原龍三郎、安井曾太郎など、それまで知っていた人たちとは違う、もっと面白い日本近代作家がいるんだということに気づきました。
松本竣介はその典型だったし、岸田劉生も面白いけど、それ以上に萬鐵五郎が面白い。萬鐵五郎は、(鎌近で)僕が担当した最初の日本近代画家なんですよ。
―― 水沢さんが面白いと感じるときの共通しているもの、琴線が触れるベースとなるものは何なのでしょう?
水沢さん 自分のことだからうまく説明できないのだけど……、19世紀まで、ヨーロッパにもアジアにも、強い権力が中心になってつくられた文化があったわけじゃないですか。
それが20世紀に入り、最初の20年間くらいで革命が本当に起きて、ソビエトが生まれたり……。
―― 大変容の時代ですね。
水沢さん ものすごく大きな変化が起きた時代、特にそのど真ん中にいた人たちは何を考えていたのか?
その時代に生まれた人たちが形成しようとした世界は、結局、着地できていないままいまも続いていると思うし、それこそ行方不明になりかけているでしょう?
萬鐵五郎の世界なんて、(そういう観点からみても)「本当にすごい絵描きだ」と観るたびに思うんだけれど、でも、みんななかなかそれを認めようとしない。
ただ、ドイツのパウル・クレーの研究者が日本に来た時、萬鐵五郎の作品を観て、「萬はクレーと並ぶくらいのすごい画家だ」と話されたことはあります。
やはり、ある程度の量の作品をまとめて観れば、1910年代の大きな表現の変化を直感すると思うんです。シーレを好きなのもきっとそうだと思うんだけど……、そこに注目することがすごく好きなんでしょうね。

民藝
1926年、思想家の柳宗悦が提唱。名もなき職人がつくる日常の暮らしの道具に「用の美」を見出す。河井 寛次郎、濱田 庄司、バーナード・リーチ、芹沢 銈介などが関わる。
神奈川県立近代美術館「柚木沙弥郎の『鳥獣戯画』」より






2019年7〜9月開催。詳細はこちら
柚木沙弥郎(1922〜2024年)。染色家。芹沢銈介に弟子入り、民藝の精神を受け継ぎつつ「用の美」を表現。
松本竣介
1912〜1948年。青を基調とした静謐な色彩で、都会の風景や人々を描いた。モンタージュの手法を用いた幻想的な構成も特徴。
松本竣介「黒い花」(1940年)
萬鐵五郎
1885〜1927年。日本における前衛絵画(フォーヴィスムやキュビスム)の先駆者。ゴッホやマティスの影響をいち早く吸収。
萬鉄五郎「もたれて立つ人」(1917年)
―― ここから葉山館との関わりも聞きたいのですが、水沢さんはいつ頃から関わるようになったんでしょう?
水沢さん 葉山館ができたのが2003年でしょう? 2011年に館長になって、実質、こちらが中心になりました。最初の8年間、僕自身は葉山で暮らしながら、鎌倉で主任学芸員から企画課長になり、葉山館にも関わっていました。
―― その間、美術、アート、文化の変化をどのように感じ、受け入れてこられましたか?
水沢さん もともと美術館には、公的な仕事として、ド派手なことはしなくても、長くしっかりやっていけばいい、というやり方が基本としてあったんです。
でも、美術館を郵政民営化に近い発想で国が独立行政法人化して、それがだんだん骨抜きになっていって、地味にやっていることはダメみたいになってしまった。
それは、資本の論理と情報重視主義みたいなもので、たとえば、1910年代の芸術表現にしても、本来は30〜40年かけて初めて証明されていくわけです。それを拾い食いみたいにパッと取って、いいね、悪いねなんて言っていると、つなぐということができなくなって、バラバラになってしまう。
それは、日本の美術界全体に言えるんじゃないかな。特に美術館活動に言えることだと思いますね。
―― そのなかで葉山館はどうあろうと……。
水沢さん 最初にも言いましたが、購入予算があるわけではないから、自分たちのやるべきことを、地道なテンポでしっかりやっていけばいいんと思うんです。
それはいわゆる公務員的な発想でもあるわけですが、そのやり方でしっかり積み重ねていく、実践しつづけるという、そこがやはり一番大事なのかなって思いますね。
そういう時間を積み重ねていくタイプの学芸員っているんですよ。そうした人がつくる世界も、もっと大事にしてあげたほうがいいなって思うんですね。
―― 水沢さんが就職された頃は3館しかなかった近代美術館もいまは数が増えましたが、逆に一貫性は見えにくくなった?
水沢さん そういうことです。やはり21世紀になって国家の性格は大きく変わったと思うんです。
デジタルの通信手段が入ってきたのが一番大きくて、僕の思い込みかもしれないけれど、そこに合う言葉……、日本語では美術か芸術の代わりに「アート」って言うようになる。実際、アーティストって言うと、芸能人の場合もありますよね。
―― アートという言葉が曖昧に広がっている気がしますね。
水沢さん なんとかアートと言うと、価値観、感覚をすごく大事にしているという雰囲気をつくりだすことができますが、なんとか芸術って言った瞬間、地味になっちゃう。
でも、芸術って言葉はじつは面白い言葉で、芸の術……。ラテン語でartの語源はarsで、もともとは技術を指す言葉だから、そういう意味では芸も術も一緒ですよね。
ただ、芸という漢字を旧字で書くと……。 ―― 「藝」って書きますよね。
水沢さん この「埶」の部分って、「植物を土に植えて育てる」という意味なんですよ。漢字を簡略化してしまうと、それがよくわからなくなってしまうんですけどね。
―― カルチャーもカルティべイトと同じ語源で、「育てる」「耕す」という意味がありますよね。
水沢さん (藝術も文化も)大地と縁があるんですね。ちょっと重苦しい感じがするのは、直感的な受け止めとして正しいのかもしれない。大地とつながるわけだから。
―― 水沢さんは、大地をどういう意味合いで受け止めていますか?
水沢さん 大地というには、揺れるし、亀裂も入る。日本はそういう土壌ですよね。大地には安定しているというイメージがありますが、それは西ヨーロッパの一部の地域の文化でしかない。環太平洋は全部揺れているわけです。
―― 大地はつねに揺れている、面白いですね。
水沢さん 大地は変化する、時に予想外の変化が起きる。日本人は、それがわかったうえで暮らしてきた。
ヨーロッパでも、イタリアとかトルコに近い人たちは、その感覚を持っているんですが、ウィーンのオーケストラが日本に来て、ホールで演奏していた時、地震に遭遇したことがあって、そうすると放心しちゃうというんですね。
―― 経験がないということですかね?
水沢さん そう。日本人は咄嗟にどう逃げるか、身を守るかをすぐ考えますよね。もちろん、大地震が起こればショックを受けますけど、いつも予感している。
―― 大地に対する、何か共有する感覚がありますよね。
水沢さん 産業革命以降の国家のありようとして、当面の文化的な豊かさを保証してくれるような、最低限の経済的な裏打ちを求めてきた経緯があるでしょう。
それが世界規模で拡大していって、搾取する国とされる国という構図が強化されてきたわけですが……。
―― でも、大地は思ったほど盤石ではないと。
水沢さん 産業革命以降の時代、そうした構図をどこかで捨てないといけないということを予感したのが、19世紀末から20世紀初めの頃のアーティストたちだと思うんです。
だから、シーレは日本美術がすごく好きなんですね。28歳という若さで亡くなったけれど、彼は十代後半に写楽を知って、影響を受けたと言われています。
―― 日本でいうと明治末から大正にかけての頃ですね。
水沢さん 1910年という年は象徴的な年で、その時に伝統的な技術でどうこうというのではない直感で、世界の見え方を変えたような人たちが、次々と現れているんです。
葉山館

洋画
高橋由一、萬鉄五郎、岸田劉生、古賀春江、松本竣介、麻生三郎、田淵安一、坂倉新平など約3,000点を所蔵。
日本画
片岡球子、三上誠、中村正義、山口蓬春、荘司福など約350点を所蔵。
彫刻
中原悌二郎、武石弘三郎、堀内正和、柳原義達、若林奮、西雅秋、湯原和夫、保田春彦、ロダン、ゴームリーなど約600点を所蔵
版画
谷中安規、藤牧義夫、棟方志功、浜田知明、浜口陽三、柄澤齊、
ゴヤ、クリンガー、シャガール、マティスなど約5,800点を所蔵。
個人コレクション(寄贈)
松本竣介と『雜記帳』
内山嘉吉と中国木刻
山口蓬春文庫と下図・素描 など
葉山館
https://www.moma.pref.kanagawa.jp/hayama/visit/
鎌倉別館
https://www.moma.pref.kanagawa.jp/annex/visit/
埶

土台の上に植物を置き、両手で持っている
↓
植物を植えて育てる
↓
自然にあるものに人の手(=技術)を加え、価値あるものに育てる
環太平洋は全部揺れている

―― 1910年に生まれたひとつの雛型が、いまの時代にどう投影されているのでしょう?
水沢さん 近代化はモダナイゼーション。モダニズムっていうのは、近代とは何かって問うこと、そのメタの意識はちょうど1900年ぐらいから生まれはじめて、1910年ぐらいにバッと突破するようなすごい才能が次々と現れた。
物理学だったらアインシュタインのような人たちが、バーンと生まれる時代だったんです。
―― ビッグバンみたいな感じで?
水沢さん そうです。デュシャンが男性の便器を作品にしようと思ったのが、1917年です。要は、そのぐらいの時に根本から大きな変化が起きている。
そういう変化を感じ、反映している近代モダニズムの芸術家たちの価値を日本のなかにもしっかり見出さないといけない。それが日本の近代美術館の最大の使命だと思いますね。
もちろん、外国の作家を紹介するのも大事ですが、その時にも、それに比べて日本はどうなのか? 自分たちの文化はどうなのか? たえず照らし合わさないとならないでしょう。その努力がいまはちょっと足りないように感じます。
―― そうした照らし合わせが必ずしも共有できていない?
水沢さん そうです。たとえば、19世紀を代表している日本の画家に高橋由一がいますが、高橋由一の絵は竹橋(近代美術館)に行っても一枚もありません。
日本で油絵を本気で描いた画家のなかでとりわけ重要なのは、高橋由一でしょう? 由一の絵は、みんな東京国立博物館にある。黒田清輝だって、国立近代美術館にメインはない。東博(東京国立博物館)にあるんですね。
黒田清輝をよく観たうえで(岸田)劉生を観て、萬鐵五郎を観なければ、そこで何が起きたのか? その空間で大きな変化を知ることができない。
国立近代美術館がそういうふうになってないんです。 ——
―― なるほど。近代の代表的な画家たちが、一つの空間(美術館)で観られないんですね。
水沢さん そうです。常設という形で、近代というものを問いかけるための展示方法がつくれていないのです。
(そういう空間があれば)絵がうまかったり、彫刻ができたり、あるいはできなくてもそれをわかるようなタイプの子たちは、もう見た瞬間に直感するわけですよ。
高村光太郎のお父さんの光雲は、こんなに仏教の彫刻をつくって、それが光太郎につながっているんだ、萩原碌山がそこから生まれるんだといったことが一瞬にしてわかる。
―― たしかに常設だとそれが体感できそうですね。
水沢さん たとえば、僕たちが外国に行って、その国の文化を経験するとしても、3ヶ月も4ヶ月もいるなんてことはない。どんな大都市でも、だいたい2〜3日でしょう?
その時に、パリだったらルーブル(美術館)でフランスの中世、近代まで、オルセー(美術館)で19世紀の作品、それから国立近代美術館につないでいけば、フランスの現代までのサンプルをざっと観られるわけです。
―― なるほど、点と点を線につなげていけると。
水沢さん そういう刺激は、コレクション展示を丁寧に管理して、目立たなくてもたえず手入れして、積み重ねていって、だんだん与えられるものになるんです。
ヨーロッパのルーブルにしたって、プラドにしたって、すごい人数の保存担当の職員がいて、毎日並べていてもたえず点検している。日本でも、8世紀から続いているような仏教寺院は、手入れをしているから残っているんですが。
―― その技術も含めて継承されているんですね。
水沢さん 薬師寺の薬師本尊だって、ブロンズ彫刻とはいえ、あそこはもう半分外に開かれている状態なわけです。博物館の保存の発想から言ったら、とんでもない悪い環境にあるけれども、残っているのはすごいことです。
(手入れも含めて)そこを大事にしている気持ちが重なってくるから、特別な芸術体験、宗教体験になるわけです。
高橋由一
① 高橋由一「鮭」(1875〜1879年)
② 黒田清輝「湖畔」(1897年)
③ 岸田劉生「童女図(麗子立像)」(1923年)
④ 萬鉄五郎「裸体美人」(1912年)
―― 最後に、水沢さんが感じておられる葉山とのつながりについて聞かせてください。
水沢さん 葉山に土地を見つけ、横浜の戸塚から移ってきたのは1999年ですが、じつは1980年代の初頭から(一色にある)山口蓬春の家に来てはいたんです。
蓬春先生は71年に亡くなられているから、お会いしたのは奥様の春子夫人だったんですが……。
―― いま、山口蓬春記念館になっていますね。
水沢さん 当時、遺された資料をどうするか? 春子夫人がすごく気に病んでいて、神奈川県に意向を尋ねたら、「もちろん、遺っているものは、美術館で受け入れるに値します」という判断になり、僕が調査に来ていたんです。
―― そこでご縁があって、葉山の暮らしにつながったんですね。
水沢さん 葉山に越してきた頃、朝早く森戸海岸で泳いでいたんですが、ある日ふと、「ここ、知っている」って思ったんです。そこで、実家に戻って、子どもの時の写真を見せてもらったら、家族みんなで森戸海岸で泳いでいた。
―― 記憶もなく引っ越してきて、海で思い出したんですね。
水沢さん だから、葉山にはすごく縁がある。子どものときに初めて海で泳いだのが森戸海岸でしたから。
―― その後、葉山館にも勤務されるようになって。
水沢さん 葉山が鎌倉と違うのは、ここが半島だというところ。強い風が吹くと、鎌倉の比較にならない。相模湾から直撃するから風の強さのレベルが違いますよね。
泉鏡花の小説『草迷宮』の冒頭に、(葉山の)長者ヶ崎にふれた文章があって、そこに「天からまるで悪魔が風を送っている」ということが書いてあるんです。
あの風の強さを、東京から来た鏡花は直に経験して驚いて、作品の冒頭に書いた。ここで暮らしている人たちは、みんなそれを感じていたわけですね。
―― 僕たちが最初に引っ越してきた時もそうでした。
水沢さん 蓬春が越してきたのは1947年、(記念館になった)あの家に住みはじめたのは53年ですが、その頃、一色海岸の漁師が持ってくる魚を毎日スケッチしていたんです。
あまりにも生き生きとした魚が獲れるものだから、それを絵に残しておきたかったのでしょう。それを調査に来た僕に、春子夫人が見せてくれるわけです。
日本画家にとっては本画が作品であって、スケッチや小下図は作品に準ずるものなんですね。
だから、エゴン・シーレみたいな発想はない。あくまで一つの手段として描いているから、ドローイングは本画よりも残っていないんですが、蓬春は東京美術学校の西洋画科だったので、鉛筆やペンのほうが好きなんです。細い毛筆で書いてないから、あれだけを見たら西洋画と言ってもいい。
そこから岩絵具で日本画を仕上げたりするんだけど、そういう意味でハイブリッドな人だったんです。
葉山に来て、光が鮮やかで、自然が豊かであることが、東京にいた時とは全然違う感性につながったんでしょう。
―― 水沢さんご自身、葉山に来て惹かれたものはありましたか?
水沢さん やはり太平洋が見えるということ。鎌倉の材木座の海を見ていても、流れ込んできた海水が溜まっているから、あまり太平洋って思わないでしょう?
でも、ここから海を見たら、もう太平洋なんですよ。 ―― 感覚が違いますよね。
水沢さん この半島っていう感覚が、僕は好きだな。半島のよさって開かれているということ。小さな町で狭いのだけど、でも、太平洋のなかに突き出ている。
―― 思った以上に広い場所につながっているのかも……。
水沢さん もちろん、房総とか伊豆半島の規模に比べたらスケール感が乏しいし、(三浦半島の)先端にある城ヶ島も悪くはないけど、城ヶ島は北原白秋の歌のなかに収まっちゃう、なんかこう可愛らしい庭みたいな感じでね。
―― 葉山はちょうどいい具合なのかもしれないですね。
水沢さん 日常感覚を離脱しないというかね。 ——
―― その景色のなかに美術館があるから素敵ですよね。
水沢さん そう、(葉山館を訪れた人には)環境をすごく意識してもらいたい。2016年に鎌倉館が閉まって、葉山館を次のステージに持っていこうという思いがあって。
鎌倉の環境は鎌倉別館でも感じられるけれども、(鎌倉館のあった)八幡宮のなかほどは感じられない。そこで、鎌倉館の庭園にあった彫刻群を鎌倉から移設したんです。
イサム・ノグチのこけしがいて、まわりにリー・ファンやアントニー・ゴームリーの作品があって……、野外彫刻庭園的な性格を与えることをかなり意識しました。(庭園をまわることで)ここがどんな環境か感じられるでしょう?
―― 都心から来る人にとって、ロケーションも含めて一つの世界に触れられる感じですね。
水沢さん 大事な作品が並んでいると思いますね。鎌近以来、世界的に人気のある作家をいきなり置くみたいなことは伝統的にないわけです。いま、地方芸術祭もたくさんありますが、上から降りてくるか、下から入ってくるか、どっちかでしょう? 鎌近はどれも下から入ってくるんです。
―― 大地性があるんですね。大地から湧き上がってくる。
水沢さん だから、上からちょこっと置いたみたいなことはやりたくない。そういう意味では、画家のなかでも松本竣介とか萬鐵五郎といった人たちがすごく大事。
―― ここがそういう場であるということが、これからいろんな人に伝わっていくといいですね。
水沢さん 地域性と言うけれど、やはり大地というのはどこだって地域、地方なんですね。だんだん都市化すると、その大地が消えてしまうけれど、東京だって地方なんですよ。
―― ああ、大地性があるはずなんですよね。
水沢さん 厳密に突き詰めれば、どこもローカル。 ——
―― 本来性に立ち返るというところが、むしろこういう場所で再認識できるといいかもしれないですね。
水沢さん それをド派手に宣伝したりして、浮き足立ってしまうのではなく、地道にやっていかないと。
―― そこがすごく伝わりました。まだまだお話が続いていく気もしていますが、今日はこのあたりで……。
水沢さん はい、ありがとうございました。
―― ありがとうございました。
薬師三尊像
中央・薬師如来坐像
左・日光菩薩立像
右・月光菩薩立像
正倉院宝物
① 鳥毛立女屏風
② 平螺鈿背円鏡
③ 瑠璃坏
④ 螺鈿紫檀五絃琵琶
⑤ 羊木臈纈屏風
山口蓬春記念館
近代日本画家・山口蓬春(1893〜1971年)が戦後23年間過ごした葉山町一色の邸宅兼アトリエを、美術館として公開。蓬春の作品、愛蔵の古美術品、陶磁器などを展示中。https://hoshun.jp
①「夏影」(1963年)
②「洩るゝ陽」(1961年)
③ 「初夏の頃(佐保村の夏)」(1924年)
詳細はこちら
泉鏡花の小説『草迷宮』の冒頭に
三浦の大崩壊(おおくずれ)を、魔所だと云う。
葉山一帯の海岸を屏風で劃(くぎ)った桜山の裾が、
見も馴れぬ獣のごとく、洋(わだつみ)へ躍込んだ。
泉鏡花「草迷宮」(1908年)
「左与利」(1951年)
「初夏」(1952年)
「さざえ」(1967年)
詳細はこちら
城ヶ島は北原白秋の歌のなかに収まっちゃう
城ヶ島の
雨に濡れつつ
利休鼠(りきゅうねずみ)の
磯の巌(いわお)に
われは立つなり
1913(大正2)年、白秋が城ヶ島を訪ねた際に詠んだされる。
① イサム・ノグチ「こけし」(1951年)
② 李禹煥「頂」(1985年)
③ アントニー・ゴームリー「Insider Ⅶ」(1998年)
④ 清水九兵衛「BELT」(1978年)
⑤ 空充秋「揺藻(ゆれも)」(1985年)
⑥ 冨樫一「ハーモニーⅡ」(1972年)