葉山の対話 2023ー2025 26
高須勇人さん Hayato Takasu
高須勇人
1964年、東京都生まれ。19歳でアメリカに留学し、20代の多感な時を1980年代のカリフォルニアで過ごす。カリフォルニア州ウエストモント大学卒業後、1990年に帰国。1992年、代官山にG.O.D.をオープン。
1995年、葉山にSUNSHINE+CLOUD、2009年、奄美大島にPARADISE+INN、PARADISE STOREをスタートさせる。また、大丸東京店「Lib Tokyo」のディレクションを担当。
店舗経営とともに、服飾、雑貨、家具、店舗内装、住宅リフォームなどのデザインも幅広く手がける。
http://www.sunshine-cloud.com
収録:2025年1月8日 @SUNSHINE+CLOUD
編集:長沼敬憲 Takanori Naganuma
長沼恭子 Kyoco Naganuma
山川麻美 Mami Yamakawa
撮影:井島健至 Takeshi Ijima @SUNSHINE+CLOUD
―― お店を始めてどのくらいなんでしょうか?
高須さん 最初のお店はここではなく、(同じ葉山の一色エリアにある)「かやの木テラス」というところだったんです。そこのオープンが1995年だったので、もう30年になりますね。
―― 葉山で30年やってきて、変化してきた印象はありますか?
高須さん 徐々にかなっていう気はしますよね。ただ、かやの木テラスで始めたときは、あまりに何もなかったというか。
―― かやの木テラスというのは……。
高須さん 葉山大道の交差点を曲がって、そうまさんっていうステーキ屋さんがある、その奥ですね。
―― あの一角は昔からあるんですね。
高須さん あそこは結構古いんですよ。(美術作家の)永井宏さんが1992年ぐらいから「サンライト・ギャラリー」っていう場を開いていたんです。
(永井さんが)ちょっと飽きてきたかなっていう時に、「じゃあ、一緒にやりましょう」という話になって、スペースの半分を使ってうちの店がスタートしました。
―― 当時、いまよりずっと静かだった?
高須さん そう。(お店を開いても)人が来ないんで、カタログをつくりはじめました。すでにアメリカには通販カタログの素晴らしい文化があったし、なによりカタログのほうが自分の思いを込められるように感じたんです。
お店って、お客さんだったり、季節だったり、いろんな要素を意識する必要があるので……。
―― カタログを意識するようになったのはお店を始めてから?
高須さん 時期としては同時かな。カタログのイメージ自体はあったけれども、「この場所でお店をやりたい」という思いと相まって生まれた気がしますから。
―― そもそも、どういう経緯でお店を始めようと思ったんですか?
高須さん もともと代官山にお店があって、自宅のあった逗子から通っていたんです。
でも、「東京に通いたくないな」っていうのが本音で(笑)。「葉山あたりでお店がやれないかな」と思いはじめたところで、永井さんとのご縁があったんです。
―― 葉山がいいなと思ったのは?
高須さん たとえば、普段は短パンでビーサンなのに、代官山に行くときはやっぱり革靴を履いちゃうわけですね。
東京に行くとわかると思うんですけど、大船が過ぎたあたりからちょっと違うじゃないですか。もっとこっちの空気感の店をやりたいという思いがあったんだと思います。
―― オンとオフがあまりくっきりしない感じで、生活と仕事がそのまま続いていくみたいな。
高須さん そうですね。だから、起きたままということではないんですけど、短パン履いて、ビーサンにTシャツで通えて、そのままお店に立てるような……。
「ここの生活をそのまま表現するようなお店がやりたい」っていうのが、スタートだったかな。
そうまさん
ステーキレストランそうま
https://steak-souma.jp/
永井宏さん
1951〜2011年。1970年代より写真、絵画、ビデオなどによる作品を発表。「BRUTUS」などの雑誌編集に携わりながら、表現活を続ける。1992年、葉山に移住し、「サンライト・ギャラリー」を開く。
「サンライト」(夏葉社 2019年)
https://www.title-books.com
「愉快のしるし」(信陽社 2020年)https://x.gd/0wZtd

―― その頃はそういうお店ってなかったんですか?
高須さん ないですね。唯一、海岸通りに「げんべい」はありましたが、ほぼ皆無でした。
―― もともとの出身はどちらで?
高須さん 東京生まれの東京育ちだったんですけれど、大学時代にアメリカに留学して、日本に帰ってきた時、「もう東京には住めないな」って感じて。海の近くに住みたかったので、逗子、大磯、湯河原のあたりに住むことを考えたんです。
ただ、その時は東京に通わなきゃいけなかったので、(距離的に)湯河原や大磯は現実的じゃないなと。
―― それで逗子が候補に?
高須さん 鎌倉あたりとは違って、本当に普通の町というか……、暮らす人の町じゃないですか。そういうところがいいなと思って、25歳の頃、逗子に引っ越したんです。
―― アメリカには何年くらいいたんですか?
高須さん 一番初めにアイダホ州に行って、その後、ワシントン州のシアトル、そして最後はずっとカリフォルニアで、どこも田舎でした。日本に一度帰ってきたりはしましたけど、トータルすると7年くらいですね。
―― そこが高須さんの原点でもある感じですか?
高須さん 18歳まで日本にいて、基本的な性格みたいなものはできていたと思いますが、そこからの色づけはアメリカだったのかなっていう気はしますね。
あの頃って、アメリカに憧れみたいなものがあって。あとは、父親が「お前は日本じゃないんじゃないか」って後押ししてくれたところもありました。
―― タイプ的に?
高須さん そうそう。一番初めのアイダホは、交換留学みたいな感じだったので、田舎にホームステイする感じで、そのあとのワシントンも本当にすごい田舎。
(ワシントンは)すごく雨が多くて、雲が多くて、それが本当につらくて。それで「カリフォルニアしかないな」と思って、カリフォルニアの大学に行って。
―― カリフォルニアはどうでしたか?
高須さん やっぱり良かったですね。いま、うちの二男もオーストラリアに行っていて、すごくお気楽なんですが、その当時の僕もそうだったんだろうなって。
ただ、勉強は結構大変でした。英語のハードルももちろんあるし、大学はクリスチャンの大学だったので、まわりの友達は、子どもの頃から教会に行っていて基礎知識がある。
それがないのに(授業で)その先のことをやるから、それはもう何を言ってるか全然わからない(笑)。
―― 異国の地に一人で、辛さとかストレスとかなかったですか?
高須さん カリフォルニア時代の2年目ぐらいまでは平気でしたが、大学時代の最後は結構痺れました。たまに週末に遊んだりしましたけど、ほぼ遊ぶ時間なしって感じで。
―― 当時何を専攻されていたのですか?
高須さん 経済学部だったんですが、テニス部に入っていたんで、朝8時から昼まで授業をやって、午後はずっと練習で、練習が終わってからまた勉強みたいな。
テニスコートの横にオレンジの木があって、休憩時間に取ってきて食べたり、開放的な雰囲気でよかったですけど、生活は結構ストイックでしたね。
―― その頃、将来のことは考えていたんですか?
高須さん まったく考えてなくて。ボワンとやりたいなと思っていたのは、テニスのコーチとか。
―― もっと徹底的にテニスをやるということもありえた?
高須さん ありえたかもしれないですね。アメリカに行って何かを取得してっていう目的は特になかったんですが、「テニスをやりたい」っていう思いはあったので。
―― いまのお仕事にはどのようにつながったのでしょう?
高須さん 家業がアパレルだったんですよ。それで、僕が大学卒業する頃に父が倒れたため、「卒業したらすぐ帰って来い」って言われて、そのまま父の会社に入り……。
―― 後を継ぐということは期待されていたんですか?
高須さん わからないですね。父のなかでは「あわよくば」っていう思いはあったかもしれないけど、(後継ぎになるように)特に何かを言われていたわけではなかったですから。


―― その頃はそういうお店ってなかったんですか?
高須さん ないですね。唯一、海岸通りに「げんべい」はありましたが、ほぼ皆無でした。
―― もともとの出身はどちらで?
高須さん 東京生まれの東京育ちだったんですけれど、大学時代にアメリカに留学して、日本に帰ってきた時、「もう東京には住めないな」って感じて。海の近くに住みたかったので、逗子、大磯、湯河原のあたりに住むことを考えたんです。
ただ、その時は東京に通わなきゃいけなかったので、(距離的に)湯河原や大磯は現実的じゃないなと。
―― それで逗子が候補に?
高須さん 鎌倉あたりとは違って、本当に普通の町というか……、暮らす人の町じゃないですか。そういうところがいいなと思って、25歳の頃、逗子に引っ越したんです。
―― アメリカには何年くらいいたんですか?
高須さん 一番初めにアイダホ州に行って、その後、ワシントン州のシアトル、そして最後はずっとカリフォルニアで、どこも田舎でした。日本に一度帰ってきたりはしましたけど、トータルすると7年くらいですね。
―― そこが高須さんの原点でもある感じですか?
高須さん 18歳まで日本にいて、基本的な性格みたいなものはできていたと思いますが、そこからの色づけはアメリカだったのかなっていう気はしますね。
あの頃って、アメリカに憧れみたいなものがあって。あとは、父親が「お前は日本じゃないんじゃないか」って後押ししてくれたところもありました。
―― タイプ的に?
高須さん そうそう。一番初めのアイダホは、交換留学みたいな感じだったので、田舎にホームステイする感じで、そのあとのワシントンも本当にすごい田舎。
(ワシントンは)すごく雨が多くて、雲が多くて、それが本当につらくて。それで「カリフォルニアしかないな」と思って、カリフォルニアの大学に行って。
―― カリフォルニアはどうでしたか?
高須さん やっぱり良かったですね。いま、うちの二男もオーストラリアに行っていて、すごくお気楽なんですが、その当時の僕もそうだったんだろうなって。
ただ、勉強は結構大変でした。英語のハードルももちろんあるし、大学はクリスチャンの大学だったので、まわりの友達は、子どもの頃から教会に行っていて基礎知識がある。
それがないのに(授業で)その先のことをやるから、それはもう何を言ってるか全然わからない(笑)。
―― 異国の地に一人で、辛さとかストレスとかなかったですか?
高須さん カリフォルニア時代の2年目ぐらいまでは平気でしたが、大学時代の最後は結構痺れました。たまに週末に遊んだりしましたけど、ほぼ遊ぶ時間なしって感じで。
―― 当時何を専攻されていたのですか?
高須さん 経済学部だったんですが、テニス部に入っていたんで、朝8時から昼まで授業をやって、午後はずっと練習で、練習が終わってからまた勉強みたいな。
テニスコートの横にオレンジの木があって、休憩時間に取ってきて食べたり、開放的な雰囲気でよかったですけど、生活は結構ストイックでしたね。
―― その頃、将来のことは考えていたんですか?
高須さん まったく考えてなくて。ボワンとやりたいなと思っていたのは、テニスのコーチとか。
―― もっと徹底的にテニスをやるということもありえた?
高須さん ありえたかもしれないですね。アメリカに行って何かを取得してっていう目的は特になかったんですが、「テニスをやりたい」っていう思いはあったので。
―― いまのお仕事にはどのようにつながったのでしょう?
高須さん 家業がアパレルだったんですよ。それで、僕が大学卒業する頃に父が倒れたため、「卒業したらすぐ帰って来い」って言われて、そのまま父の会社に入り……。
―― 後を継ぐということは期待されていたんですか?
高須さん わからないですね。父のなかでは「あわよくば」っていう思いはあったかもしれないけど、(後継ぎになるように)特に何かを言われていたわけではなかったですから。
代官山にお店を出したこと
G.O.D(代官山)
https://sunshine-cloud.com/pages/g-o-d
オリジナルのTシャツ



MARKET BAG SERIES
倉敷の帆布で仕立てる
MARKET BAGシリーズ。
https://sunshine-cloud.com/collections/market-bag-series




―― スタイルの原点はいつぐらいにさかのぼるのでしょう? 影響されたものってあるんですか?
高須さん あえて言うとすれば、カリフォルニアにいた時かな。その前からベースはあったりするんですけど、それがもう少し色づいていったのが学生時代なんだろうと思います。
きょん2 ご自身のスタイルは昔から変わらない?
高須さん 通っていた高校が私服でよかったんですよ。で、よく友達に「お前、それパジャマ?」って言われて(笑)。そういう話は高校時代からあったと思います。
きょん2 古着屋さんなどで買い物をしたりとかは?
高須さん その頃はまだ古着屋ってあまりなかったんですよ。やっぱりファッション誌がお手本になっていて、みんなそれを見ていたけど、そこからは外れていたかな(笑)。
明子さん まだVANとかJUNは全盛でした?
高須さん そうそう。VAN、JUNとか。そこからプレッピーになっていって、「ポパイ」がスタートして、ちょっとアメリカっぽくなってきて。「メンズクラブ」とかの影響もあって、少しずつカジュアルが入ってきた時代かな。代官山のお店でも、その頃のミックスが意外に受けたんですよ。
明子さん セレクトショップの走りですよね。
高須さん 代官山にまだ同潤会の古いアパートがあって、お店としてはハリウッドランチマーケットがあったりとか。ランチのほうが僕より10年ぐらい早いんじゃないかな。
―― 代官山にお店を出したいと思ったのは?
高須さん 会社のプロジェクトだったので、僕が選んだわけではないんです。その前から代官山で店をやっていて、その店をリニューアルしようというプロジェクトを僕が担当した感じですね。
―― 受け入れてもらえる土壌はあったということですか。
高須さん じつは代官山ってあまり売れないんですよ。やっぱり売り場としては渋谷とか新宿で、代官山にお店を出しても、結局、ショールームみたいになっちゃう。
きょん2 確かに。見に行くって感じかもしれないですね。
高須さん たまたま父の会社がやっていたお店があって、ただショールームでいいのか? (そうではなく)ちゃんと売り上げは取らなきゃいけないという思いもあって、そのお店を新たな形でスタートさせたわけです。
同潤会の古いアパート
関東大震災(1923年)後に代官山、青山、上野などに建てられた、日本初期の集合住宅。戦後カルチャーの発信基地として知られた。
ハリウッドランチマーケット
1972年創業、日本のセレクトショップ文化の先駆け的存在。
―― 葉山でお店を出すようになったのは、そのあとですよね?
高須さん はい。1995年なので(代官山のお店が始まった)3年後ですね。最初はスペースの半分を間借りして、当時あまり日本に入ってきていない、「この場所でこんな高いものを?」っていうものを扱っていました。
明子さん オーロラシューズもその頃ですか?
高須さん オーロラシューズは、代官山のお店の頃から売っていましたね。お店を出すためにいろんなところを見て回っていたとき、ニューヨークの友人が「これ面白いよ、どう思う?」って見せてくれたのが最初でしたから。
―― すぐ取り扱うようになったんですか?
高須さん いや、その時は見せてもらって、サンプルだけ取り寄せておいたんですよ。
代官山の店に飾ってもいなかったと思うんですが、その頃、スタイリストの方がよくお店に来てくださっていて、その一人にうちのスタッフが貸しちゃったんです。それで(雑誌の)新商品紹介みたいなページに取り上げられて。
―― まだサンプルしかなかったのに?
高須さん そう。取り寄せておいただけで、まだ仕入れてもいなかったんです。靴には輸入枠があって、ちゃんと取っておかないと関税がすごく高いんですよ。
―― でも、先に出ちゃったから。
高須さん そう。「なんとかしなければ」となって、オーロラシューズの工房にコンタクトを取り、急いで現地に行って、バッグに100足くらい入れて帰ってきました。
きょん2 それで販売して。反響もあったわけですよね?
高須さん すごかった。それで、在庫がなくなったらまた取りに行って、しばらく大変でした。
―― カタログは葉山のお店になってからですよね。これはどう広まっていったんでしょう?
高須さん 僕らが始めた当初はそれほどでもなかったんですが、2、3年した頃に通販がすごく注目されだして、いろんな雑誌で特集されるようになったんです。
うちのカタログもある雑誌に取り上げられて、それがすっごい反響だったんですよ。そんな反響ないだろうと思って、「FAXか手紙で問い合わせいただければお送りします」って書いてもらったら、2万通くらい応募が来て。
―― 2万通も? すごいですね。
高須さん 朝、会社へ行くとFAXの紙がなくなっていて、フロアに紙がブワーって散らばっているし、応募のハガキなんかは箱で来るんですよ。もちろん、そんなにカタログは刷ってないし、「これ、どうやって処理するの?」って。
―― 本当に予期せぬことだったんですね。
高須さん とりあえずカタログを増刷して、業者に頼んで住所をデータ化してもらって、送料も全部払って送って。
それまで500冊くらいしか送ってなかったのが、ピークには2万冊くらいになったわけです。
―― いやあ、すごいなあ。世の中全体に通販が広まっていった過程をみているようです。
高須さん 初めに雑誌が通販をやっている会社を特集し、次のステップとして、自分たちも雑誌のなかで通販をやりつつ、データを取っていって。それから自分たちの雑誌の中で通販ページをつくっていったという流れじゃないかな。
―― インターネットが出てきてから、そうした流れややり方は変わっていったんですか?
高須さん 僕らは紙ベースに結構引きずられちゃったから、当初は別にネットはやらなくてもいいんじゃないかって。大手の通販会社も紙ベースがあるから、ネットに移行するのがすごく遅れたじゃないですか。僕らもまったく一緒ですね。
―― いまではネット経由のお客さんも増えたんですか?
高須さん いままでは「紙ベースのものがネットで見られる」っていう程度だったんですよ。今年になってやっと、ECらしいものになった感じですね。
明子さん それなのにブランド力がすごいですね。
高須さん そんなにすごいことはないですけれど、まあまあ長くやってる。しつこくやってる(笑)。
オーロラシューズ
アメリカ・ニューヨーク郊外、人口700あまりのオーロラ村の小さな工房でつくられている皮製のシューズ。
SUNSHINE + CLOUD が、日本正規輸入販売店に。
AURORA SHOE CO
https://aurorashoe.jp/





2025年4月に通巻60号を迎えた
SUNSHINE+CLOUDのカタログ。
―― この場所との出会いはどんな感じだったんですか?
高須さん 2011年の震災の時、僕らも何かできることがないか模索していたら、ある人から福島に救援物資として服を届けている人がいるっていう話を聞いて。
「じゃあ、僕らの服を持っていきましょう」って話になって、何度かその人たちと福島に通うなかで、ある和菓子屋の娘さんと出会ったんです。震災のことが一段落した頃、その方から「葉山にうちの使ってない物件があるので、見てみますか?」って言われたのが、ここだったんですね。
―― その和菓子屋さんというのは……。
高須さん 虎屋さんですね。もともとここは虎屋さんの保養所で、(さかのぼると)虎屋さんの社長家が使っていたことを知って、ちょっとびっくりしたんですが、何年も使っていなかったそうで、(物件を)最初に見たときはデザインできるイメージがあまり湧いてきませんでした。
(スペースも)大きいし、いわゆる昔の保養所って感じで、これをどうしようって思いましたね。
―― いまとは全然印象が違ったんですね。思いとどまろうとは思わなかったんですか?
高須さん 移転したいという思いはずっと持っていて、何度か物件を探していたんです。
ただ、良いものが見つからなくて。だから、奄美大島の話があった時、「じゃあ、やりたいことを先にここでやろう」って思ったんです。それが2009年の頃かな。
―― 奄美大島で宿をやっているんですよね。
高須さん はい。それで奄美のほうが落ち着いて、震災の後にこの物件の話が出てきて、「いやあ、これは大変だけどやってみるか」と思って。虎屋さんと条件交渉をするのと並行して、建物のデザインも始めていったんですよ。
―― 交渉の段階でやる前提だったんですね。
高須さん 虎屋さんも使っていない物件というところで、すごく紳士的に対応してくれて。
毎月一回ぐらい赤坂の本社に行って交渉をしたんですが、なかなか落としどころが見つからなくて、お互いに「どうしましょう?」みたいになっちゃって……。
最後の最後、2012年の11月ぐらいに、ようやく話がまとまって、もうデザインは始めていたので、そこからすぐに工事を始めて、2013年4月にオープンしたんです。
―― いまのサンシャイン・プラス・クラウドの誕生秘話みたいな、貴重なエピソードですね。「ここでやるぞ」って決めた背景には、どういう思いがあったんですか?
高須さん まだ若かった。いや、若かったっていう若さでもないけど……(笑)、その時は思い切ることができましたね。ずっとやりたかったことだから。
―― それはこういう場をつくりたいという?
高須さん 表現する場としてここなのかなって。「かやの木テラス」は小さかったし、当時は知る人ぞ知るみたいな、看板もないお店でしたから、表現できることが限られていて。「なにか違うんだよな」って10年くらい悶々としてたんです。
明子さん ここだから表現できるということは、具体的にどういうことだったんですか?
高須さん まずスペースがあるじゃないですか。たとえば、お花もやれるとか、カフェもやれるとか。野暮ったい言葉だけど、ライフスタイル、生活を体現できるお店というのかな。
自分が短パン、ビーサンでこのへんを歩いてるような……、それをお店で表現したいと思っていて。
―― 葉山的なライフスタイルを表現するという?
高須さん 意図して葉山を表現しているわけじゃないけど、僕のなかには葉山が染み込んでいる。
葉山とか逗子とか、海辺の暮らしが染み込んでいるから、それが染み出てくればいいですよね。


奄美大島で宿をやっている
PARADISE+inn



奄美大島北部にある木造建の小さな宿。同じ建物内に、アパレルPARADISE STOREと、イタリアンレストランも併設。
https://paradise-breeze.com/
―― カタログの話をもう少し聞きたいんですけど、どんなことを表現したいと思ったんですか?
高須さん 一つは、商品につけている文章ですかね。商品に当て込んだ文章ではなく、このへんの生活とか……。ここだけじゃなく、みんなが「こういう生活なんだよね」って感じるような言葉をつけるようにしています。
あとは、白黒にしているから、余白があって、見ているほうも想像ができるような気がします。
カタログって自分が読みたいときに読めるじゃないですか。たぶん、気持ちに余裕がある時に読まれるものだから、そこにも余白が広がるというか……。葉山に来たことがない方も、「葉山ってどういうところなんだろう?」とかね。
―― カラーだとまた印象が違ってきますよね。
高須さん 情報が多すぎると、想像する余白がなくなっちゃうじゃないですか。そういう意味で、白黒にしていたり、あえて多くを語らない部分があったり。
きょん2 ご自身で文章は書かれているんですか?
高須さん 初めは永井さんの文章でしたけど、永井さんが亡くなられてからは、ずっと公募ですね。うちのスタッフも出すし、お客さんも応募してくれるんです。
(採用された方には)グッドジョブ賞といって、お店では売っていない素品を差し上げています。(キャップを見せながら)60号の記念のグッドジョブ賞はこれでした。
―― 30年で60号にもなるんですね。
明子さん 最初から見ていますが、ナンバリングしてあるから、いつも揃えるのが楽しみでした。
きょん2 そうそう、カタログの制作をやっている渡部忠さんは、ハンカチーフ・ブックスのデザインもやっていたんです。もともと彼と一緒に始めたので。
高須さん はい。いまも渡部さんに手伝っていただいています。切り抜きとかレイアウトは渡部さんですね。
―― カタログの余白って、この建物にも感じられますね。
高須さん 僕はもののデザイン、店舗のデザインなどもやっているので、基本は同じだと思います。キツキツにしないというか、どれも余白は大切にしてますね。
きょん2 洋服選びもそうなんですか?
高須さん 洋服や他のものを選ぶ時は、余白というより、「つくっている人はどんな人なんだろう?」とか、つくっている場を突き詰めていく感じになりますね。
「あれっ?」って引っかかった時、「こういうところで生地をつくっているんだ」とか感じることが出てくるんです。dosaというブランドと出会った時もそうでした。一番初めに扱った時は、まだクリスティーナ・キムのお母さんがやっていた時なんだけど、そこからクリスティーナに変わって、すごく進化していって。そうした変化を一緒に見られてすごく勉強になりましたね。
―― 高須さんが何かを選ぶときのキーって何なんでしょう?
高須さん バイブレーションかな、ものからの。土地もあるし、人からも出てくるし。
―― 高須さんの好きなバイブレーションというのはどんな?
高須さん 何でしょうね……。ちょっと神秘的なところとか。言葉で言うとしたら「えっ?」ていう感じ。それは人によって違うかもしれないですけど、僕は感じとる熱量が大きいとき、「えっ、何これ?」ってなるんです。
それで、つくっている場所に行ったり、つくっている人に会いに行ったりすると、「うわっ」となる(笑)。奄美と出会ったときも、「うわっ? なんだここ」みたいな。
―― 「えっ?」で始まって「うわっ」になって。
高須さん それでどんどんと知っていくことで、それが仕事になってしまう感じですね。
初めは永井さんの文章でしたけど
永井さんは33号まで担当。
その内容は、「愉快のしるし」(信陽堂 2020年)として刊行された。
https://amzn.asia/d/09uBmgGs
キャップを見せながら


―― そういう感覚は、意識して磨かれている?
高須さん つながるかどうかわからないですが、余白の時間はつねにつくろうと思っていますね。
朝の一時間くらい走ったり、海で泳いだり、(逗子の)自宅から歩いてここまで来たり……。ヨガをしたり、瞑想や座禅をする人もいるかもしれないけど、僕にとっては歩いたり、走ったり、泳いだりっていうのが余白の時間で。
―― 余白は日常でも欠かせないものなんですね。
高須さん 朝起きてからずっと、目に見えているもの全部が情報として入ってきますよね? それが夜まで増えていって、ずっと飽和しているから、一回無くさないと。そうすることで「ああ、これだ」って大切なものが入ってくるんです。
―― 毎日のルーティンなんですね。
高須さん できる限りやっていますね。いまの時期(1月)はまっ暗だから、あまり早くやれないですが。
―― 日の出とか関係ありますね。
高須さん ありますね。やっぱり1時間くらいは時間がほしいので、逆算すると朝7時には海岸に行かなきゃいけない。いまは7時でも寒いし暗いから、この季節は結構歩くんです。毎朝、自宅から歩いて会社に来ています。
―― 逗子からですよね。時間はどのくらい?
高須さん 海沿いを50分くらいかな。考え事しながらということもあるし、一日のスケジュールの組み立てを考えていたり、その日によっていろいろですね。
思い詰めていることがあったら、ずっと思い詰める。
―― そのなかでこの店のこれからについて考えることは?
高須さん この店自体のイメージは特にないんですけど、お店があって、玉蔵院があって、森山神社があって……、葉山のなかでこういうポジションは他にはないですよね?
―― 初めてお店を知った時に、背景も何も知らなかったのに、葉山が凝縮されてるような感じがありました。
高須さん (そういう言葉を)自分の励みに、日々悶々としながらやっている感じですね(笑)。
明子さん いまは地域の人が来るようになって。カフェもあったりするから身近になりましたね。
高須さん 地域って、すぐには受け入れてくれないじゃないですか。それはしょうがないことで、自然に、時間をかけて。それには10年以上はかかると思いますよね。
いまでは、お花だけ買いに来られるおばあちゃんとか……、歩いてくる方もいるし、自転車で来る方もいるし、(その一方で)すごく遠くから車で来る方もいて。
―― 葉山のランドマークの一つだなって思います。
高須さん ありがとうございます。隣の駐車場を広げようとした時、作業をしていたら、ご近所の方が「ここ何になるの?」って尋ねてこられて。「うちの駐車場に」って答えたら、「おめでとう」って言ってくれて。それはすごく嬉しかったですね。
―― 何が建つのか気になったんでしょうね。
高須さん それを聞いた時、うちがやるべきことというか、使命はあるなって思いましたね。
―― この地域のなかでの使命でしょうか。
高須さん 店としてはお客様、会社としてはスタッフが大事ですが、地域としては、「ここにこの店があって良かったよね」って思っていただけることですよね。
この店があることによって、人のつながりも生まれますし、「このあたりで店を出してもいいかな」と思ってくれる人が出てくるかもしれない。そういう部分も含めて、(使命というのは)いろいろと複合していると思います。
―― お店が続いてきた秘訣はあるんでしょうか?
高須さん どんなものもそうだけど、熱量とバイブレーションがないとやっていけないですよね。
あのカタログにしても、初期の頃からいまもほぼアナログです。昔はポラで撮って、置き直して、また撮って……。その後、印刷所から上がってきたカタログに、一つずつスタンプを押していくんですが、(一人ではできないので)車に積んで、友達やお客さんのところに持っていって。
―― ああ、手伝ってもらって?
高須さん そう。「はい、君は500部ね」って(笑)。それをまた回収して、一つ一つ封筒に入れて、シールを貼って、発送するまで、すべて手作業だったんです。
それってまだ若かったし、いまほどいろんなことやっていなかったからできたんだと思いますが……。それを30年続けるには、やっぱり熱量がないとね。
―― 熱量って、時間とともに落ちやすいですよね。
高須さん この間の60号に書いたんですが、デジタルの時代にどんな意味あるのかな、と思うところもあって。
あれを見て買おうと思う人より、ネットを見て買っている人のほうが圧倒的に多い時代に、時間かけて、お金をかけてやる意味があるのかなって自問自答するわけです。
たぶん、やめたって売り上げは変わらないかもしれない。ただの自己満足でしかないのかなとも思いますが、待ってくださるお客様もいるから、続けるしかないなって。
お金も時間も熱量も、見た目より結構大変なんです(笑)。
―― お話を伺うと、そこにスピリットがあるように思いました。
高須さん それがなくなったら継続できない気もしますよね。
―― 合理的かもしれないけれど、熱量が維持できなくなるのかも。
高須さん それが店に伝わってくるかもしれない。大きな資本がある人だったら、ボンとやることができるんでしょうけど、僕らはそういうことじゃないから、できる限り道を掃くみたいに積み重ねていくしかないのかなって。
明子さん お子さんはお父さんの仕事に興味をお持ちですか?
高須さん 息子が3人いて、一応は興味は持っているようですが、継ぐ継がないとか、そこはわからないですね。
―― でも、ずっと続いてほしいなあ。
高須さん (お店の)バトンタッチは誰であってもいいと思うし、もしかしたら、もっと違う形で受け継がれていくかもしれない。できるならばこの形がどんどん進化しつつ、より良くなっていく次の世代だったらいいなと思いますね。
―― 今年がサンシャイン・プラス・クラウドの30周年。葉山も100周年、とてもいいタイミングでお話が伺えました。今日はありがとうございました。
高須さん こちらこそありがとうございました。
SUNSHINE+CLOUD
https://sunshine-cloud.com/

玉蔵院
https://gyokuzoin.com/
森山神社
https://www.moriyamasha.jp/
一色会館
https://www.moriyamasha.jp/isshiki-kaikan/
葉山御用邸・一色海岸まで徒歩5分