森嵜健、周さん Ken & Meguru Morisaki
森嵜健 1972年、葉山町生まれ、葉山町育ち。大学卒業後、商社に就職するも3年で離れ、以来、パタゴニアなどに勤務をしたのち、コーヒーの魅力に目覚め、2003年に葉山一色で「THE FIVE★BEANS」をスタート。コーヒー豆の自家焙煎のかたわら、葉山を中心に数々のイベントにも出店中。趣味はサーフィン。写真で抱えているのは、幼なじみ(ナカジ美術)が制作した、漆塗りのサーフボード。
森嵜周 1974年、神奈川県横須賀市生まれ。多摩美術大学造形表現学部舞台美術を卒業。2003年、結婚を機に葉山の暮らしを本格スタート。以来、娘一人、息子二人の子育て、夫とともに「THE FIVE★BEANS」を経営するかたわら、葉山での暮らしをエネルギー源に、絵画制作や和菓子づくりも続けている。「人生はひとりひとりが主演の舞台」がモットー。
収録:2023年10月26日 @THE FIVE☆BEANS
編集:
長沼敬憲 Takanori Naganuma
長沼恭子 Kyoco Naganuma
撮影:井島健至 Takeshi Ijima @THE FIVE☆BEANS
――まずコーヒーの話から聞きたいんですが、どういうきっかけでお店を始めたんでしょう?
健さん コーヒーは好きだったんですけど、それよりもサーフィンが好きで。「葉山で波のいい時はサーフィンをしたい」っていう思いがまずあったんです。
もともとサラリーマンをしていて、その後、パタゴニアがサーフボードの販売を始めるタイミングで鎌倉のお店でスタッフとして働かせてもらって。パタゴニアでは、波のある日には勤務中に海に行くこともできたんですけど、この界隈って波のいいタイミングが短いんですよね。
だから、自分の責任で自由に時間を調整できるような仕事をしないと、波の一番いい時に行けない(笑)。
じゃあ、手に職のつく仕事を見つけようと思って、 パタゴニアをやめた後、パン職人だったり、家具職人、そば職人だったり、他にもガテン系の求人を探して……。
――そこからコーヒーの仕事にどうつながったんですか?
健さん 僕、ずっと生まれも育ちも葉山なので……。
きょん2 葉山ネイティブなんですよね。
健さん はい。実家は森戸海岸の近くなんですけど、葉小(葉山小学校)の南郷(南郷中学)で、ちょうど一色小ができた年なので、結構人の多い時代だったんですね。
だから、「もり兵衛」の店主も、「魚寅」の長男坊も同級生だし(お店を継いだのは次男)、あと、「菊水」に嫁いだ「永楽屋」の二番目も同級生で……。
きょん2 すごい。みんなつながってるんですね。
健さん はい、同級生が多いんですよ(笑)。「光徳寺」の若住職も、革のバッグの工房「C.C.BAXTER」の店主も、風早橋の「稲龍」という電気屋さんも同級生で。
みんなまじめに後継をしたり、勉強して独立したり、なかには自分のような社会不適合者もいて。こういうのんびりしたところに育っているので……(笑)。
きょん2 私たちも同年代なので、めちゃくちゃ親近感が湧いてきました(笑)。
健さん やっぱり、大好きな葉山で時間を過ごすには、葉山で成り立つ商売をしないといけないと思うようになりました。東京まで通勤している時間がもったないし。
周さん あと、ピアニストの山下洋輔さんも葉山に住んでいたことがあったんですよね。
息子さんと小さい時によく遊んでいて、家に遊びに行ったら大きいピアノがあって、昼間にお父さんがピアノを弾いていて、「何の仕事してるんだろう?」ってずっと思ってました(笑)。
健さん 「琢亭」の奥さんで「タッド ボトル&バー」のおかみをやっているれいこさん、「ナインティーン」のミキティ、「葉山ガーデン」の長女も、KDP(KANAGAWA DOG PRODUCUTION)の菊池くんも、「日の出園」の和田のマーちゃんも同級生で。結構いろんな人がいて、面白い場所ですよ。
周さん その人たちが子供を産んでいると、また保育園で一緒になったり、小学校でも一緒になったり……。そういう同級生ネットワークがありますよね。
きょん2 (周さんに向かって)どちらの出身なんですか?
周さん 私は横須賀なんです。ただ、葉山に限りなく近い……。
――しかし、すごいな。お店や人がそんなにつながってるとは思わなかったです(笑)。
健さん 同級生が頑張ってやっていて、自分も何か見つけなくちゃと思ったら、たまたまコーヒー関係の募集があって……。そこは南米に強い貿易会社だったので、コーヒー豆とかブラジル人が食べる乾燥のインゲン豆とかを扱っていて、僕はそこのコーヒーの担当になったんです。トラックを運転して生豆を取りに、本牧埠頭や山下埠頭へよく行ってましたね。
取引先は、いまみたいにおしゃれな感じじゃなくて、おじさんが自家焙煎をやっている昔ながらのコーヒー屋さんに生豆を卸販売し、貴重なお話を聞かせてもらったり。会社が自動車メーカーと太いパイプがあったので、オフィスコーヒーのルートセールスで営業所などにコーヒーを入れたり。
そこで豆を焼いたり、パック詰めをしたりする経験ができたし、ほかにも貸し出したマシーンを自分で分解して、清掃などのメンテナンスをしたり。そういうことをやっていた時期、スタバができ、日本にいいお豆が入るようになって……。
周さん でも、その前から大学を出て……。
健さん そうそう、最初は結構おっきい商社に入ったんですよ。当時、商社やスーパーみたいな流通業が大卒が一番入りたい会社で、僕が入ったのは、大手のスーパーやレストランに冷凍食品などを納めている取扱量日本一の商社だったんです。
――ちょうどバブルギリギリぐらい?
健さん 弾けてたけど、でも、ちょっと残ってる感じの……。そういう時代に入って、大手の食品メーカー、レストランのテストキッチン、コンビニのお弁当やお惣菜の工場などに研修に行ったり、手伝いに行ったり、そこで最新の機械も見たりしたんですが、やっぱり大量生産だから、食べ物が工業製品っぽいんですよ。
冷凍卵焼きをつくるラインとか、生卵が一斗缶一杯に全部割られて入っていて、原料の投入以外は機械がつくる。食はただお腹を満たす行為ではなくて、相手のことを思ってつくられた、愛情のこもった料理が嬉しいと思うので、「これは違うな」っていう思いがあって、それも引っかかってたんですよね。
当時、中国へ研修に行った時、まだ機械化されてなくて人海戦術だったんですけど、そこでは大きなフロアに100人くらい並んで、大きな包丁研ぎから始まって、白身魚を器用にカットしてフライをつくっていました。
私もラインに入って体験したんですが、機械じゃなく人がつくると、不思議と温かみがある気がしたんです。
—— なるほど。そんな体験をしたんですね。
健さん その後、営業に配属されたんですが、会社どうしの力関係が対等ではないし、消費者までのつながりが見えない。だから、全然面白くなくて。
やっぱり自分としては、つくったものに対するお客さんの反応や感想を知りたい思いもあったので、その会社は3年ぐらいで辞めて、フラフラしてからパタゴニアに入ったんです。
――そのあと、手に職をつけようと?
健さん はい、大きい会社を見てきたので、小さい会社も見たいなっていうこともあって、いろいろな職人系の仕事を探していた時に、コーヒーがあったわけです。
同級生が多いんですよ
もり兵衛
https://www.moribei.com/
菊水亭
https://www.kikusuitei-moritobashi.com
C.C.BAXTER
https://ccbaxter.net
琢亭
https://takutei.com
タッド ボトル&バー
https://www.instagram.com/tad_bottle.and.bar/
ナインティーン
https://www.instagram.com/mikityashikawa/
葉山ガーデン
https://onlineshop.hayamagarden.co.jp/
KDP
https://kdp-satooya.org
日の出園
https://www.hayama-hinodeen.com
スタバができ
1996年、東京・銀座の「銀座松屋通り店」が日本第1号店。日本にサードウェーブが根付くきっかけになった。
↓
サードウェーブ:農産物としてのコーヒーを見直し、豆そのものの個性を大事にするコーヒー・カルチャー。
――やっぱり、いろいろな違いを感じたのでは?
健さん 大きなところだとお金の流れがわからなくて、納品書の書き方も知らないくらいだったので、いろいろと学んで、コーヒーのことも勉強して……。
その時に、いまは一般的なんですけど、カップ・オブ・エクセレンスオークション、オークションで優勝した農園の豆を社長が取り寄せて、焼いてみたらすごく美味しくて。「こんな美味しい豆があるんだ」と感動したんですね。
当時、自分たちが直接入れている豆は「どこの農園でどういう精製処理をして、どういう品種か?」わかっていたんですけど、それ以外の大手のメーカーが持っている豆ってわからなくて。
オークションの豆は、農園主も生産履歴も書いてあって詳細がわかるし、もちろん味も美味しいし、ほかにも興味深い特徴の豆があったり、一般に知られてないところも経験できたので、ちょっと衝撃的でしたね。
――その頃が本格的なコーヒーとの出会い?
健さん そうですね。90年代後半の頃だったのかな。当時は、ブルマン、キリマン、ハワイコナが最高で、ブラジルサントスや大きい括りのモカの時代でしたね。もともとうちの親父もコーヒーが好きだったので、小さい時から豆を挽いた香りがすごく好きだったというのはありますけど。
きょん2 90年代終わりって、さっきも出てきたけど、スタバが日本に入ってきた頃ですよね?
周さん そうそう、銀座に入ってきて。
――まだファイブ・ビーンズが始まる前……。
健さん 貿易会社をやめて、無職でそろそろ働かないとと思っている時、知り合いのカヤックショップ兼カフェバーのオーナーの方に、「自分のところで焼いた豆を置けるから、カフェの店長やらない?」って言われて。まず、雇われ店長のカフェバー時代に、自分で焙煎を始めたんです。
—— 葉山のお店だったんですか?
健さん 一色の御用邸の近く、いまの「葉山シャツ」、もともと老舗の蕎麦屋「如雪庵 一色」があった隣に、「シリウス・スポーツ」っていうシーカヤックのお店があったんですよ。
多分、ご存知じゃないと思いますけど……。
周さん 当時、シーカヤックがすごく流行っていて、サップとかが出る前、アラスカとか北を漕ぐ感じで。
健さん (そのシーカヤックのお店の)1階がショップで、2階がクラブハウスみたいな感じでカフェバーをやっていて、そこで豆を売ったりとかね。夜はバーなのでお酒をつくったり。もうブラックなところで(笑)。
周さん 朝から夜中までね。コーヒーだけじゃなく、アウトドアのこともパタゴニアで体験して知っていますし、夜はカフェバーでお酒もやって。
健さん 大変でしたけど、年に何回もシーカヤックのキャンプツアーがあって、料理担当で西伊豆〜南伊豆に行ったり、楽しい思い出もたくさんありました。
周さん 結構大変でしたけど、その時がいろんなことが出来上がってきたっていうか、自分たちのやりたいことが見えてきた時期で。やっぱりコーヒーだなって。
健さん そうだね、そんな感じだったね。
カップ・オブ・エクセレンス
最高品質のコーヒー豆に贈られる称号。
きょん2 お店は、二人一緒にやってたんですか?
周さん 私は学生だったかな……。長く大学生をやっていて、27歳で卒業したので。
健さん 美大に行っていて、途中でドイツに行ったりとかね。
周さん それで無職で結婚して(笑)。
健さん シーカヤック屋さんをやっていた頃って、自分としては方向が決まっていたので、(将来を考えながら)とにかく朝から夜中までほぼ一人でまわしていました。
朝11時に開店だったからその前に行って、夜中の12時まで働いて。さすがに週末は2人体制でしたけど、夏なんかは明け方の4時ぐらいに帰ることもあって。
周さん オーナーが一世代上の、バブルのイケイケ世代なので、俺についてこいみたいな感じで(笑)。じゃあ、もう自分で独立しようってなって、そこを辞めて結婚して。
――どのくらいの期間、やってたんですか?
健さん カフェバーは2年ぐらいかな。後半戦は、豆だけ納めるようにして、人手が足りない時にちょっと手伝いに行ったりしていましたけど、バイトのほうが割がよかった気がする(笑)。
――そうした日々を経て独立して、いまのファイブ・ビーンズが生まれたということ?
周さん そうですね、2003年とか2004年。ちょうど来年(2024年)が20周年だから……。
健さん 細々とだけど、2003年ぐらいには始めていたんだよね。 一色の住宅街のなかに、昔、カノムパンっていうパン屋さんがあったんですけど、そこからさらに山のほうへ入ったジャングルみたいなところで(笑)。
きょん2 最初のお店、カノムパンの近くだったんですか? じつはそこに住んでいたワタナベさんというデザイナーと一緒に、ハンカチーフ・ブックスを立ち上げたんです。
健さん エエッ、あの三角コーナーの?
周さん たしか編み物してらして。
きょん2 そうそう、奥さんのマミさんがニットデザイナーで。
――カノムパンが引っ越してから、そのワタナベ夫婦が入って。余談ですけど(笑)。
きょん2 そこでもうお店を構えていて?
健さん お店というか、古い平屋の住まい兼コーヒー豆の直売所みたいな。玄関に焙煎機が置いてあってね。たどり着くまで、大家さんの畑の脇を通って、老梅がたくさん生えている土手を登って、やっと見つかる場所でした(笑)。
周さん 小売で、普通にリビングにお客さんを招いて。
健さん みんな面白がって。家の軒下というか、ちょっと屋根があるところにハンモックを吊るしておいて、子供とかも結構楽しめるような感じだったんですよね。
周さん なぜか電波の悪いエリアで、住所でナビすると大家さん家の玄関先に行っちゃうので、なかなか電話がアクセスできない、行きづらいお店みたいなところもあって。
「近くまで来たけど行けない」っていう問い合わせがあって、(目印になる)実教寺や文教堂葉山店、遠いと新善光寺まで迎えに行ったりしていましたね。
カノムパン
2015年、鎌倉の扇ヶ谷に移転。
https://khanompang.stores.jp/
ハンカチーフ・ブックス
2015年、創刊。ことし(2025年)で10年目に入りました〜。
https://tissuestyle.base.shop/
実教寺
葉山町一色にある日蓮宗のお寺。鎌倉時代、日蓮聖人が創建。
新善光寺
葉山町上山口にある浄土宗のお寺。本堂は県指定文化財。
――どんなふうにお店が広がっていったんですか?
周さん パタゴニア時代の先輩で「雀家」の小雀陣二さんから「アウトドアイベントで出店しないか」と声かけてもらったり、イラストレーターで美術作家の永井宏さんが『雑誌カタログ』のお気に入りで紹介してくれたり……。他にも何人かのライターさんが珍しがって取材に来てくださって、「湘南スタイル」のような雑誌に載せてもらえたり……。
健さん 本当にコーヒー真正面からの営業じゃなくて、アウトドアのメーカーのイベントとか行ったりとか、あと、 雑誌のコーヒーを山で飲む特集とかに呼んでもらったり。
周さん 家族キャンプとか流行り出しの時だったから、子供たちもロケに一緒に連れて行ったりしたよね。
うちは、パタゴニアから「ゴミは出さない」っていう環境的な取り組みを根っこから教わってきたので、いまも使い捨てのカップをお店で出さなかったりしているんです。葉山町がいま、SDGsに取り組んでいますけど……。
きょん2 そう言われる前から。
周さん そう。その当時からそんな環境でやってきていたので、それも珍しがられたり。あと、「お金を貯めるために働く」のではなく、 「遊ばざる者、働くべからず」みたいな考え方も、パタゴニアから学んだスピリットなのかなって思いますね。
――それを自然と実践していた感じなんですね。
健さん そもそも、小さい時から葉山の海に潜って、熱帯魚を獲って飼育したり、山で遊んだり、大学時代に始めたサーフィンにハマったり、自然のなかで過ごす時間が長かったこともあって、環境問題には自然と関心がありましたね。
周さん そういう思いがあったから、葉山町の人たちともつながれたのかなって。森山神社の土曜朝市もその流れで始まって、春日(泰宣)さんとかと一緒にね。
――ああ、なるほど。あとから葉山に移住してきた人たちともつながっていったんですね。
周さん そうですね。春日さんもそうだし、(中山)陽太くんもそうですが、畑を各自が借りていて。たとえば、ショウガを植える時期だから共同でタネを買おうかとか、そういうネットワークもいろいろとできていきましたよね。
雀家(すずめや)
https://www.suzumeya.co.jp
湘南スタイルmagazine
https://www.instagram.com/shonanstylemagazine/
葉山町がいま、SDGsに取り組んで
「葉山エシカルアワード2024」最優秀賞を受賞。
https://www.town.hayama.lg.jp/material/files/group/2/FIVE_BEANS.pdf
パタゴニアから学んだスピリット
Patagonia presents『遊ばざる者、働くべからず How to break the rule A to Z』(エスクァイア日本版1998年10月号・臨時増刊)
「遊ばざる者、働くべからず」は、パタゴニアの創立者イヴォン・シュイナードの言葉。
https://www.patagonia.jp
森山神社の土曜朝市
葉山町一色の森山神社の境内で、毎週土曜日の午前中に開催中。
https://moriyama-asaichi.jimdofree.com
春日泰宣さん
https://nowhere-japan.com/hayama/articles/002/
中山陽太さん
https://nowhere-japan.com/hayama/articles/010/
――森山神社の朝市っていつぐらいから?
周さん 森山の朝市は、震災のほんと数か月前に始まったんです。当時は、朝市っていう名前じゃなくて……。「焚き火マーケット」みたいな名前だったかな?
「風と森」というお弁当をやっている髙木ともよさんとか、イギリスに引っ越しちゃったけど、お菓子をつくっているオズボーン未奈子さんとかと「マーケットをつくろう」って盛り上がって、でも、数ヶ月後に地震になっちゃって。
当時、みんなで情報を共有したり、とにかく井戸端会議みたいな環境が欲しいっていうので、震災後もなんとなく定着して、それでいま 12年目くらいなのかな?
健さん 震災のあと、移住していった人もいるし、その後も、自然な流れで出たり入ったり……。どこかに行った人も、移住先で同じことを始めていたり……。
周さん 場所が神社だし、開かれたコミュニティではあるから、単発的にお店を出したいという人もいるし、ずっと続けている人もいるし、季節だけの人もいるし……。そこも全然縛りはなく、それぞれが出したい時に出すという感じで。
周さん そのあたりは、ほんとに自然発生ですよね。あと、ここから派生する感じで、(逗子の)ビーチマフィンで陽太くんたちと一緒に量り売りのゼロウェイスト・マーケットを立ち上げて、 年に4回ぐらいやるようにもなったかな。
――そうか。そこもつながっているんですね。
健さん 自分たちの世代なのかわからないけど、やっぱり価値観が近い人が集まっている気がして。バブルが弾けて、リーマンショックだったり、911だったり……、いまの社会、なんとなくおかしいぞみたいになって、「じゃあ、自分たちでやろう」って。みんな同じぐらいだよね、始めたのは。鎌倉の一花屋さんとか、逗子のヨロッコビールとか。
周さん あと、盆部(イマジン盆踊り部)とかもね。
健さん 鎌倉のパラダイス・アレイとか、逗子のシネマアミーゴ&シネマキャラバン、スパイスツリーとか、結構同じ時期に……。
――そういう思いとか気持ちみたいなものが、湘南一帯のいろんな場所でつながっているんですね。
周さん そこに311があって、まわりのみんなが一斉に移住しちゃうようなこともあって。当時、山口県の上関原発反対の活動なんかもやっていたから。
健さん 陽太くんとかそっちに行ってたよね。「やっぱり原発が危ない」ってみんなが活動しはじめていて、coyaのジュンジくん、キコちゃんから「福島はやばいから、メルトダウンしてるから、一緒に西に行こうよ」「じゃあ、山口で合流しようか」って連絡を取り合って。
お互いに子供が小さかったので、地震の2日後には焙煎した豆を全部持って、車で移動しました。
周さん うちは友人で焚き火カフェをやっている寒川一さんに誘われて、彼の実家の香川に一ヶ月弱ぐらい行っていたんですが、そこに移住しちゃう人たちもいて。でも、「自分たちのいる場所の役目ってあるかもね」みたいな思いもあって、「やっぱり葉山だね」ってなったんです。
――自分たちの足場がだんだん整ってきて。
周さん いつでもどこでも行かれるように心は軽くしつつ、「自分たちのいま守るべき場所ってここだよね」というところでつながっていったのかもしれないですね。
風と森
https://kazetomori.jp/obento/
ビーチマフィン
https://www.instagram.com/beach_muffin
ゼロウェイスト・マーケット
使い捨て容器を使用しない、量り売り中心のマーケット。
一花屋
https://www.instagram.com/ichigeya_kamakura/
ヨロッコビール
https://yorocco-beer.com
イマンジン盆踊り部
https://imaginebonbu.com
パラダイスアレイ(培養発酵宙造研究所)
https://www.instagram.com/paradise_alley_bread/
スパイスツリー
https://spicetree0316.blogspot.com
coyaのジュンジくん、キコちゃん
逗子でカフェ「coya」を営んだのち、沖縄のやんばるへ移住。現在、今帰仁村でカフェ「波羅蜜(パラミツ)」を営む。
https://www.instagram.com/paramitajunji
焚き火カフェ/寒川一
https://sangawa-hajime.com
――僕たちが葉山に移住したのは2013年なので、そうやって整ったところにやってきたんだなって。それで10年経って、ようやくお二人の話に追いついてきた(笑)。
健さん でも、2013年だったら早いよね。コロナでまた変わったじゃないですか。移住者も増えたけど、ところてんみたいに葉山にいた人が二宮に行ったりとか。
きょん2 ああ、二宮ってよく聞きますよね。
周さん 震災の前、町長選があったりしたのもひとつのターニングポイントで、そこで結束が生まれたり。
健さん 震災の前、「なぎさプラン」という、真名瀬の海岸線に遊歩道をつくろうという県の計画があって、 コンクリートで海岸線を固めるっていうものだったんですね。この反対活動でも、世代を超えた結束ができた気がするな。(カメラマンの佐藤)正治さんとか、(パートナーの)ももちゃんとか……。
周さん 漁師の(久保木)晶ちゃんとかね。
健さん そこでみんなつながりつつ、町長選があって、震災があって、より強固になったというか。
――町長選も大きかったんですね。
健さん いまの山梨町長が出る前、何人か候補がいたんだけど、森(英二)さんっていう方を推そうって。
(現町長の)山梨さんはまだ若かったから、その前に森さんにつないだらいいんじゃないかって。葉山の自然環境や景観を守って、より良い葉山にしたいという気持ちがあって、(川崎)直美さんとか(高田)明子さん、当時、「逗子葉山秋谷新聞」を出していた山本勝哉さんとかも活動されていて。
そういう人たちが集まって、ポスティングとかしましたね。子供が生まればばっかりだったんですが、お正月にみんなで「どこの地区を回ろう」とか話し合って。
――僕たちの知らない葉山がそこにあったんですね……。
健さん もともと葉山の人も、都内から移住してきた人も、みんな協力し合って、仲間意識が出てきましたね。
――そういう過程を経て、この数年はコロナもあって、いまの葉山をどんな感じでとらえていますか?
周さん コロナで移住してきている人たちも結構いて、また新しくなってきてますよね。そういう若い人に期待があったり、基本的に開いているところはありますよね。
健さん 葉山って、田舎なんだけど、御用邸や別荘の文化があるから、もともと住んでいた人も新しいもの好きな人が多くて、そんなに排他的ではないと思いますね。
――移住してきた人を受け入れる空気はあるかも。
健さん 昔からあるお祭りとかも楽しめる人が多いから、馴染む人が増えていると思いますね。
二宮
神奈川県二宮町。湘南エリアにあり、近年、都心からの移住先として注目されている。
――いまの場所に移転されたきっかけはあったんですか?
周さん 前の場所は大家さんの敷地の中だったんですが、結構お客さんが多くなっちゃって。取材もくるし、問合せも多いし、 じゃあ、店舗だけ別にしようかって。
それで、どこにしようかってなんとなく思っていたら、いまのお店の場所が空っぽになっていて。
健さん そう。ちょうど小さい店舗を探していた時、たまたま車で通りがかったお店が空っぽで、市川不動産の建物とくっついていたから、とりあえずすぐに電話したら、最初は「もう決まっているよ」って言われて。でも、後日連絡を入れたらキャンセルになって、うちが借りられることになったんです。
—— いつくらいのことですか?
健さん 16、17年前のことですね。(焙煎機のある)ここは築百年以上の建物で、もともと畳屋さんの職人の住居兼作業場だったんですが、お店の物件を借りてしばらくしたら畳屋さんが廃業されることになって。
そのあと市川不動産の岩並社長も初めて入る内見の時、一緒に同行させてもらった瞬間、決めちゃいました。もう事後報告で、奥さんにも誰にも相談しないで(笑)。
――焙煎機をここに置きたいっていう。
健さん この土間にね。もとも土間のある物件を探していたので。
――こっちに移られてきてから、どんな変化がありましたか?
健さん より多くの人が来てくれるようになりましたよね。前もお店を探して、それこそ日本全国から来てくれていたけど、こっちは隣にスズキヤさんがあるので、近所のおじいちゃん、おばあちゃんとか、買い物帰りに寄ってくれて。
周さん 最近はお家でコーヒーを飲む文化が広がってきていて、若い人だけじゃなく、年配の方でも、定期的に買いに来られる方が多くなりましたよね。
あとは、やっぱり好奇心旺盛なのかな。葉山の人なのかわからないですけど、「何屋さんなの?」って入ってくる方もいて(笑)。
健さん 客層がとても広くなりましたね。あとは、海に近くなったので、人の動きで波の状況がわかるようになったかな(笑)。
――これから新たにやりたいことは?
周さん 私は宿をやりたくて。大きなホテルじゃなくて、一組だけでももてなせるような。やっぱり葉山って世界中から感度の高い人たちが集まっているし、御用邸があって、一色海岸、森戸海岸、森戸神社、仙元山、美術館など……、逗子でもないし、鎌倉でもない……。
自分たちのコミュニティで、食事のケータリングも、ヨットのようなアクティビティもつながりがあるから、トータルに葉山のことを紹介できるような……。
前の世代のおじいちゃん、おばあちゃんも、畑とかやりたいけど体力がなくてできない方がいて、畑もいっぱいあるから、そこも何とかできないかなって。
健さん 世代交代をうまくしとかないとね。
周さん 食べ物も、いま美味しいものは何でも食べれるし、東京でもたくさんあるから、このあたりの地の野菜をつかった朝ごはんとか提供できたらいいなって。
――コロナも開けてきたから、これから新しい感じで。
周さん ハワイ島に住んでいるお友達から、ハワイでは土地の売買ができないということを聞いたんですね。
誰かが土地を買ったり、所有したりするのではなく、その土地の人がその土地を代々受け継いでいく……、葉山もそういうところであってほしいなって思いますよね。
健さん つながれる場は、土曜朝市とかいろいろとあるから、閉じこもらないでつながっていってほしいですよね。
周さん 物も心も、つねに流動的であることが当たり前だって思うんですね。いまはこの人とすごくつながっているけど、ある時はまた違う人とつながって、いったん離れたものがまた戻ってくるということもあったり。
きょん2 葉山はそれが許されるって感じがありますよね。
健さん 本来は天気とかで行動を変えるというのがベストだと思うよね、都会の人は大変だろうけど(笑)。流動的でいられることがいちばんいいなって思いますね。僕は風まかせ、波まかせな感じなんです。
いまの場所
一色海岸のすぐ近く、葉山町御用邸の正面で、スペシャルティコーヒーの専門店を営業中。
https://thefivebeans.com
↓
スペシャルティコーヒー=生産地からカップに注がれるまで、品質・トレーサビリティ・(生産背景)・倫理性にこだわったコーヒー。
↓
サードウェーブに登場したのが、スペシャルティ・コーヒー
市川不動産
https://www.suzukiya-inc.jp/store/535/
ここは
お店から一軒挟んだ隣の家屋に焙煎機があります。対話や撮影もここで行われました。
スズキヤ葉山店
https://www.suzukiya-inc.jp/store/535/
これから新たにやりたいことは?
めぐるさんは、絵や和菓子の制作にも取り組んでいます。
「こころにはいつもうみ ーThe ocean is allways in my mindー」(森嵜めぐる 2022年)
和菓子MEGURU
https://www.instagram.com/wagashi_meguru
ハワイでは土地の売買ができない
ハワイの先住民の間には、「土地は“与えられたもの”」という価値観が根付いていた。土地( ʻĀina)には、「命を支えるもの」「母なる存在」という意味も含まれている。
——葉山とコーヒーって、すごく馴染みがいい気がしているんです。
健さん ちっちゃい町に、何軒コーヒー屋があるだろうって(笑)。
周さん ほんと急に増えたよね。
—— そのなかで「ファイブ・ビーンズ」が大事にしているものって、どんなことなんでしょう?
健さん コーヒー豆は農産物で、その土地にはさまざまな人や生物が共生しているので、野生生物だったり、コーヒー豆をつくる方々だったり、いろいろなところに気を遣いつつ、なおかつ美味しいものを扱いたい思いがまずありますね。
もちろん、自分の焙煎でその美味しさを引き出せたらベストなんですけど……、何よりも顔のわかる関係で、お互いがお互いの思いを知っていて、ずっとつながっているのがいいですし、そういう豆を皆さんに紹介できたらいいですよね。
「今年の豆はすごくいいね」「去年とはまた違う雰囲気あるね」って言葉を交わしながら、生産者とも、お客さまとも、コーヒーを通じて長くつきあっていけたら。
周さん うちでは、ブレンドの豆を販売してないんですよ。よくお客様が「ブレンドありませんか?」って聞かれるんですが、うちはないんですってお答えしていて。
やっぱり、農園の方が胸を張って、自分たちがいいと思える、環境にもいいお豆をつくっていることがわかっているので、他の産地の豆を混ぜてしまうのがものすごく失礼にあたるような気持ちが、根底にあるんですよね。
—— そう言えば、お店でブレンド扱ってなかったですね。なるほど、そういう意味があったんですね。
周さん ブレンドっていうと響きもいいし、買いやすいし、紹介しやすいですよね。桜の季節に桜ブレンドをつくったり。
きょん2 でも、そのまんまを出したい。
健さん そうですね。オリジナルの味をわかったうえでブレンドを飲んでもらえると、また楽しいのかな。じつは今度、葉山ブレンドをつくる予定もあって。コロンビア・オーガニック100%で、焙煎度の違うものをブレンドしていこうかなと。
周さん 卸し先には、和食に合うブレンド、スイーツに合うブレンド、イタリアンのブレンドっていう形で対応はするんですけど、やっぱりつくっている方のプライドもつなげていきたい、伝えていきたいという思いがあって。
だから、理想を言えば、ブラジルとかアフリカとか……、うちが扱っているお豆の産地を全部訪ねて、農園の方の顔を見て、お話しして、どんなふうにつくっているかを知って、そのうえでご紹介したい思いはありますね。
健さん すぐには難しいけど、家族揃って行きたいね。
周さん あと、卸し先になるお店や会社の方には、必ずうちのお店に来ていただくのを条件にしているんです。地方からも来てくださって、まず顔合わせてして、「どんなお豆が好きですか?」ってお話しするようにしています。
「じゃあ、季節によって変えてみましょうか?」とか、最初はたくさんの量じゃなくて、まずオーナーの方が必要な量からスタートしていくのもいいですし。
—— 個人のお客さんでも、リクエストはできるんですか?
周さん ウエディングの引き出物とか頼まれることが多いです。以前、お父さんが亡くなられた方のご依頼で、お香典返しに「お父さんブレンド」をつくったこともありますよ。
――あともう一つ、お店のファイブ・ビーンズっていう名前には、どんな意味があるんですか?
健さん タコノマクラって知ってますか? ウニみたいにトゲがある海の生き物なんですけど、子供の頃、森戸海岸でビーチコーミングするのがすごく好きで、よく拾っていたんですよ。
で、お店を始めるにあたって、ロゴマークをこのタコノマクラにしたいと思って、(ロゴを指しながら)うちの奥さんにデザインしてもらったのがこれなんです。
それで、「お店の名前を何にしようか?」って言った時、よく見ると5つの豆っぽく……。
周さん (タコノマクラの実物を見せながら)わかります?
きょん2 ホントだ、豆が5つあるみたい。
健さん そう。先にこれをマークにしたくて、このロゴからファイブ・ビーンズという、お店の名前が決まったんですね。
きょん2 これが生き物なの?
健さん そう。乾燥しちゃっているけど……。
周さん ウニ科の生き物なんですね。じつは細かいトゲが生えていて、緑色っぽい、茶色っぽい塊みたいな感じなんです。で、ここの模様のところだけ浮き出ているというか……。
健さん ちなみに、これは美智子さまがお触りになられたタコノマクラなんですよ。
きょん2 すごい。今年(2023年)、葉山に来られてましたよね?
周さん ですよね。うちの店の前を通りすぎただけなんですけど。
健さん そう、朝のお散歩中に。朝早くお店で作業しているので、毎朝、外出を拝見していたんです。
周さん いままで海のほうでお散歩されることが多かったと思うんですけど、今回の滞在の時、朝の6時ぐらいに正面から出られて、しばらくしたらたまたまお店の前を通られたんです。
その時ちょうど朝のケータリングの仕事が入っていて、珍しく二人でお店で作業していたんです。それで、お付きの方が通り過ぎていくのに気づいて、すぐにお店のドアを開いたらちょうど正面にいらして……。
健さん 前に海でお会いして、お話ししたこともあったので、覚えておられたんだよね。
きょん2 えー、すごい。顔を覚えてたんですね。
周さん 店の外にある真鍮の看板を触られて、「ファイブ・ビーンズだったのね」っておっしゃっていただいて。それで、「このマークは?」みたいな話になって。
「じつはこれがモデルなんです」って、タコノマクラを見せたら、上皇陛下が生き物の研究をされてきたこともあって、「タコノマクラですね」っておっしゃられて。
――いやあ、いろんな話が出てきますね(笑)。なんだか葉山のことも、コーヒーのことも、前より身近になった気がします。
健さん こちらこそ、ありがとうございます。葉山に来られた方が店に立ち寄って、海辺を散歩しながらのんびりコーヒーを飲んでいただけたら嬉しいですね。
きょん2 タンブラー持参して、コーヒー入れてもらって、一色海岸をゆっくり歩いて……。
周さん 持って帰っていただくだけでもうれしいですが、ゆっくり葉山も感じてほしいな。
健さん 冬だったら、コーヒー持ってトレッキングしてこようかなとか、そういう方が来てくれたら。
――これからゆっくり、そんな場をつくっていきましょう。またよろしくお願いします。
周さん はい、よろしくお願いします。ありがとうございました。
健さん ありがとうございました。
タコノマクラ
上皇陛下が生き物の研究をされてきた
主にハゼ類の分類学的研究に従事されてきた。葉山の御用邸周辺は、ご静養以上に、フィールドワークの舞台として滞在されていたようです。
ちなみに、昭和天皇はヒドロ虫類、ウミウシ類を研究。その標本の一部は、御用邸隣のしおさい博物館に展示されています。
https://www.town.hayama.lg.jp/soshiki/shougaigakushuu/2/1701.html