nowhere HAYAMA
葉山の対話 2023ー2025 10

僕たちの役割は、
「いいな」と思ったものを
いまよりも綺麗にして、
次の世代に渡していくこと。

中山陽太さん Yota Nakayama

中山陽太さんと出会ったのは、
葉山町制百周年のプロジェクトが始まったばかりの頃。
どんな方かわからないままお会いし、
コーヒーを飲みながら、徒然なるままに対話をはじめ……。

若き日の旅のエピソード、自然農、古道具との出会い、
葉山の暮らしに溶け込んでいく、
彼のライフヒストリーが浮かび上がってきた。

「次は古民家に遊びに行きますね」

そんな言葉を交わした数ヶ月後、
上山口にある、築150年という未来の邸宅にお邪魔した。
いまもなお、コツコツと修復を続ける先に、
陽太さんの夢が広がっている。
人が豊かに、幸せに生きるとはどういうことだろう?
生活用具と古道具が無造作に置かれた空間は、
人の息遣いの聞こえてくる、優しい世界につながっていた。

中山陽太
1980年生まれ。旧姓・岡田陽太。愛知県名古屋市出身。高卒後、全都道府県をヒッチハイクしながらの野宿旅、台数は1000台以上。アジア各地、北米では水・電気なしの先住民族居留区にも滞在。国立公園、野外音楽祭・クラフトフェアを野宿&ヒッチハイクにて経験する。
その後、名古屋を拠点に旅を重ねたのち、「Little Eagle」で服飾の分野に携わり、初期の「アースデー東京」「フジロック」などに出店。秋谷(横須賀)を経て、2005年、葉山へ移住、古材・古建具・古道具の店「桜花園」で働くかたわら、環境・政治・社会運動に携わり、さまざまなイベントを開催してきた。
2006年より無肥料・無農薬・不耕起の「足土農園」(のちに八星自然農園)をスタート、骨董古道具「八星」として独立し、葉山の海水で塩の完全自給。2023年、葉山町「農地付き空き家バンク制度」利用者第一号として農地と宅地取得、築150年の茅葺家屋と軽量鉄骨の家屋を自然素材にて修繕中。

収録:2023年2月19日 @カフェテーロ葉山
編集:
長沼敬憲 Takanori Naganuma 
長沼恭子 Kyoco Naganuma
撮影:井島健至 Takeshi Ijima @古民家(自宅兼ギャラリー)

―― 陽太さんは、もともとどんなことをされていたんですか?

陽太さん 僕はですね……、高校を出たあと、野宿をしながら日本全国をまわっていたんです。

―― え、歩いて?

陽太さん はい、歩いて。バイクもピンとこず、自転車も考えたんですけど、鉄道を使うとお金がかかるので、歩こうって決めて北海道から出発しました。
 北からずっと全都道府県をまわって、それぞれの土地にある伝統工芸、地場産業、工場見学、農場、漁港、名所旧跡を一通り訪ね、神社仏閣にもご挨拶しながら旅しましたね。

―― 旅に出た理由というのは……。

陽太さん 高校の時、普通に大学行こうとしていて、芸大の存在を知って、こういうのもあるんだと思って、一校だけに絞って受験したんですけど落ちてしまって。
 前期の試験に落ち、後期の試験を受けるまでの過程で初めて自問自答する機会が訪れて……、「世間を何も知らないのに将来を決めるのは、おかしいな」って。それで、一回、日本にあるものを見てみようと思ったんです。

―― 日本はくまなく歩いたんですか?

陽太さん 結構、まわりましたね。早足で歩いたんで2年ぐらい。

―― 北からまわって、最後は沖縄にも?

陽太さん 沖縄では全離島をまわって、そのまま台湾から大陸へ行こうとしたんですけど、鳥インフルエンザがあって渡航禁止令が出たため、断念して。
 それからバイトしたり、働いたり、いろいろなことをやって……、たまたま最後に出会ったのが愛知県で服をつくっていて、アースデー東京のイベントとかフジロックに初期の頃から出店しているような人だったんです。
 その人のところに住み込んで仕事をしていたら、「葉山に引っ越すんだけど……」と相談されて、そのままその流れで葉山に暮らすようになりました。

―― そこで葉山とつながったんですね。

陽太さん はい、最初は秋谷(横須賀)で、葉山で暮らすようになって、ことしで20年くらいになりますね。

―― いまのライフスタイルはいつから意識しはじめたんですか?

陽太さん 僕は名古屋の市内で生まれ育って、町遊びも散々やってきたんですけど、うちの親父が自然が好きで、町場にいながら海、山、川に連れて行ってくれていたんです。
 だから、「大人になったら何でもできるようになりたいな」って自然と思うようになって、それがそのまんまいまの暮らしに入っているという感じですね。

―― いま、どんなことをされてるんですか?

陽太さん いま畑はやっているんですけど、農家になりたいわけではなくて。ただ、百姓仕事は当たり前にやりたいと思っていて……、話が飛んじゃうかもしれないですけど、行きたいところに行けないのを、「働いてるから」「仕事があるから」って、みんな言い訳みたいに使うじゃないですか。

―― そういうところってありますよね。

陽太さん 僕のなかで仕事というのは、銭を稼ぐための仕事だけでなく、生きていくための日常の仕事、暮らしのなかの仕事、あとは地域とか、政治、環境、社会、いろいろななかでの大事な仕事があると、ずっと思ってきたんです。
 たとえば、一週間という時間があるんだったら、こうした仕事のすべてに関わるというか、まんべんなく偏らずにずっと生きていく、そんな生き方を目指していきたいというのが、いまの形になっているところがあって。
 まあ、本職が何かと言われたら、僕はもともと古道具の仕事をしていて……。こういう古民家もそうですけど、いろいろな運命があって解体されてしまった家から建具とか部材を外して、再生することをずっとやってきました。

―― 日常のなかでつくったり、生み出したり……。

陽太さん そうですね、修理とか、洗い仕事とか、本当に自分の天職だなと思っていて。いまでも独立してやっているんですけど、同時に畑もやって、自家採種もして、塩づくりとかもやって。その塩で味噌とか醤油をつくって……。

―― 塩はどうやってつくるんですか?

陽太さん (葉山の)真名瀬や三ヶ下から海水を汲んできて、家の薪ストーブで焚き上げてつくっています。

Note.1

アースデー東京
毎年、代々木公園を中心に開催。環境、平和、人権などをテーマにマーケット、ライブ、イベントなどが展開されている。​


フジロック
毎年夏、苗場スキー場(新潟)で開催される、日本最大級の野外音楽フェスティバル。


薪ストーブでの塩づくり。葉山の海(真名瀬海岸、三ヶ下海岸)で汲んだ海水をゆっくり焚き上げる。



―― そういう暮らしをいつから意識するようになったんですか?

陽太さん 思いがより濃く出たのは、20年ちょっと前ぐらいからですかね。旅しているうちに、「もう名古屋は戻る場所じゃないなと」思って、そこからなんとなく葉山に来てしまって。
 当時は洋服の仕事で事務方をやっていたんですけど、自分が本当にやりたいことに向き合わされたというか。服も好きですけど、いまの道に行きたいという思いが強く出るようになったのは、葉山に来てからですね。
 住んでいる家の芝生を剥がして種を蒔くようになったり、そういうところから始まって、あとは実践あるのみ、それしかないじゃないっていう感じです。

きょん2 陽太さんは百姓なんだよね。百あることをいっぱいやりたいっていうことですよね。

陽太さん 僕らの世代って、うちの親の世代、おじいさん・おばあさん世代から段階的に受け継がれてきたもののなかに、残っているものと、ここで途絶えているものとあって。
 やっぱり僕らが能動的になって取り組んでいかないと、後にも先にも続かないというか。多くの人が感動する風景とか手仕事とか、みんな「いいな」って思っていても、「いいな」で終わっていると何も残らないわけです。
 意図的に自分が手と足を動かすことで始まる世界があるんだろうなと思っていたので、できる範囲でも、失敗しながらでもやっていきたいということが一番原動力になっていますね。

―― 継承するために、日々どんなことをされているんですか?

陽太さん たとえば、野菜の種一つつなぐこともそうですし、それが一代限りのF1種なのか? 子孫を残せる在来種なのか? そういう世界の状況と、いまの自分の目の前にある種と向き合うということもそうですし……。
 あるいは、家を直すときも電動工具を使って簡単に直すのではなく、昔の手道具の鉋を使って触ることとか、ざっくり言うとそういうことなんですけど。

―― なるほど。そういう一つ一つの積み重ねで……。

陽太さん そうですね。古道具を引き継ぐこともそうなんですけど、自分がいいなと思うものを買い支えるということもつながっていくじゃないですか。
 たとえば、「木樽っていいな」ってみんなが思っていたとしても、結局、プラスチックの樽を使っていたら、木樽の文化とか手仕事も残されない。それだけでなく、この木樽にまつわる風景も、素敵な街並もなくなっていく。
 自分としては、「そこにつながり続けていく」という軸足をブレずにやっているだけで、自分が何をやっているという思いはあまりないんですけどね。

―― 農業という職業があるわけじゃなく、暮らしのなかに農的なものがあったり、食にまつわることがあったり、どれも全体の一部で、当たり前にやっている感じなんですね。

陽太さん そうですね、全部が同時進行というか。

―― 畑は最初からやっていたんですか?

陽太さん 本当は葉山に来る前からやりたかったんですけど、そういう機会がなくて。最初は秋谷の家に住み込んでいて、そのあと、その後結婚することになるカミさんが住んでいた(葉山の)堀内に引越して。築百年の家だったので、庭もあって、四季折々の花が咲いていたんですよ。
 まずその庭に触れるところから始めて、その後も葉山の別のところをに移りながら、ご縁があった場所で少しずつ土に触れて……、その積み重ねですね。

―― いま、上山口に住んでおられるんですよね?

陽太さん はい。自宅の近くに、いまは改修している茅葺きの家があって、その近くに農地もあって。

―― 茅葺きの古民家? 改修しているんですか?

陽太さん もともと茅葺きだったんですけど、いまトタンをかぶっちゃっているんですよ。その下に茅が残っていて、そこも30年間空いていた家で、建物全体が傾きながらねじれているので、いまずっと自分で直しています。

―― 本当はトタンを取って、茅葺きの家にしたい?

陽太さん したいですよね。

きょん2 藤田一照さんの坐禅会にずっと行ってるんですけど、あそこもいま、茅を直していて。

陽太さん いいなって思いますよね。家のほうもですか? 

きょん2 お家も全部やってるんですよ。門のところも、坐禅会をやってる観音堂も全部。

陽太さん へえ、全部やってるんですか。

きょん2 ただ、茅がなくなっちゃって、いまはお休みっていうか、集めに行っているみたいです。関西のほうに取りに行ってるって言ってました。

陽太さん 停まっている車のナンバー見て、関西だなって。入口の山門が終わったのになぜ停まっているのかなと思っていたけど、そういうことだったんですね。
 茅を集めるのに一年、揃えるのに一年、葺き替えに一年って、茅葺きには3年かかるって言われていて。お金もかかるので、いまの時代、僕の暮らしのレベルからはずっと上なんですよね。

―― 思った以上に手間がかかるんですね。

陽太さん 昔は古くなった茅を畑にすき込んで、また新しい茅を入れて……。このあたりでは湘南国際村のあたりが茅場だったらしくて、みんな総出で順繰りに茅を刈り出しに行って、持ち帰って茅を葺き替えて。
 僕がいま直している家の曽祖父にあたる方が茅葺きの親方だったらしくて、道具も何も残ってないんですけど、(それを)再現したいなという思いもありますね。

Note.2

一代限りのF1種
収量の安定をはかるため、異なる品種どうしを交配してつくった一代限りの種。(First Filial Generation)。次世代以降に引き継がれない。



撮影時、「八星自然農園」と名付けられた畑にも案内された。こうした畑が、上山口のあちこちに点在している。


葉山町の「農地付き空き家バンク制度」の利用者第1号として、2023年、築150年の古民家を農地とともに取得。現在、自宅と古民家を行き来しながら、ゆっくりと修繕している。



藤田一照さんの坐禅会
下山口在住の禅僧・藤田一照さんが主宰する坐禅会。


関西だなって
茅葺きは、神戸を拠点に活動する職能集団「くさかんむり」が手がけた。
https://kusa-kanmuri.jp


―― 僕たちは旅が好きなので、家を空けちゃうことも多くて、畑はなかなかできないんですよね。ただ、旅先で人と出会うということも大事な要素だなと思って。

陽太さん 旅人って、いろいろな土地の風を運んでくれるんで。同じところにずっと定住していると、そのなかでも風はあるんですけど、外の新しい風が流れを変えてくれたり、新しい出会いをつないでくれたりってあるじゃないですか。

―― いまは旅よりは、日常のなかの生活が多いんですか?

陽太さん そうですね。外への旅はもう十分という思いもあって。いまもそうかわからないですけど、(日本に住んでいる)僕たちは世界で最強のパスポートを持っているわけですから、本当は世界中をまわろうという思いもあったんですけど。

―― 自分でやりきったっていう感覚が持てたんですね。最後に島をめぐったあたりでそういう思いがあったんですか?

陽太さん 最後、与那国島から台湾が見えて、「やっとここまで来れたな」っていう思いはありましたね。
 途中、他に行きたかったところももちろんありましたけど、それはまた機会があったらで十分だなって。アラスカに行ってオーロラが見たいとか、世界中の美味しいものを食べたいとか……、普通は行けないじゃないですか。
 僕の場合、(日本中を歩いてまわることで)行けないところに行けるという贅沢さに気づけたので。

―― 確かに。日本を北から南にたどって何が見えたんですか?

陽太さん 結構、早い段階で気づいたんですけど……、自分のなかに、ゼロ円で歩くっていう決め事があったんですよ。
 電車は使わないっていう選択をして、バックパックに米も乾物も調味料も全部積んで歩くっていう選択をして、基本自炊をして、でも、当然無くなりますよね。
 そうすると、人が泊めてくれたり、ヒッチハイクも1000台以上乗ってるんですけど、そのなかでの出会いでいろんな人に助けてもらったり、声援をいただいたり、水一杯がありがたいと感じることが何回もありましたし……。
 野宿を通してそうした経験をするなかで、家のなかから聞こえてくるいろんな声とか、ご飯の匂いとか……、家庭にすべてがあるんだなっていうことに気づけたんです。

―― へえ、すごいなあ。

陽太さん 大きく言えば、日本は世界の縮図で、日本の縮図はどこにあるか? どんどんとたどっていくと、結局、一つ一つの家庭にその縮図があることに気づいて。
 気づけたことを実践できているかは別としても、何かあったときに立ち返れる原点、それが家庭であり、地域の集落、自分で言えば上山口だったり、葉山町だったり、神奈川県だったり……。その地域が成熟していくことがすべての解決方法だということが、自分のなかで見つかったものだったんです。
 そこから人や地域への関わり方、心の持ち方が変わったところがあるかもしれないですね。

―― 旅をしていて大変だなと思うことはなかったですか? 心を開かないといけない場面も多いですよね?。

陽太さん あの時は開き切っていたと思いますね(笑)。良くも悪くも開いていて、18、19歳でしたから、生意気だったところも、無邪気だったところもあったかもしれません。

―― ある意味、怖いもの知らずだったんですね(笑)。

陽太さん 好奇心が旺盛で、多感な時期だったんで、ヒッチハイクでも、ヤクザの組長から、田舎のじいさん、ばあさんまで一通りの職種の人に乗せてもらって。開いているというか、すべて解放された感じで旅をしてましたね。

きょん2 だって、ゆだねるしかないよね。

陽太さん あの時の自分だったからできたっていうのは、あったかもしれないですけど。

Note.3



きょん2 たとえば、作物を育てることもゆだねるっていうことじゃない? そんなことはない?

陽太さん 作物を育てるのにも、いろいろな方法があるじゃないですか。その時にどんな農法を選ぶのか? それって、自分の信念や哲学もそうですけど、家族構成とか生活する環境とか、いろいろなものが関わってくると思うんです。

―― 陽太さんはどういう選択をされたんですか?

陽太さん 僕は、川口由一さんの自然農から始まり、ずっと不耕起でやっているんですけど、最初の場所、2番目の場所、そしていまの場所と、どこも土の性質が全然違っていて、そのなかでいまも実験というか、向き合って、観察していて……。
 たとえば、イモ類のように収穫時に掘り上げてしまうところは米糠や落ち葉に油粕、藁を入れたり、その一つの敷地のなかで自然農だけにこだわりすぎずにやってますね。

―― 自然農に出会うきっかけは何だったんですか?

陽太さん 最初に知ったのは、旅をはじめた翌年の2000年に出逢ったピースウォーク(The Long Walk for BIG MOUNTAIN)に参加してる人たちの何気ない会話から知りました。
 北米先住民・ナバホ族が暮らしている聖地に大量のウランや石炭が埋蔵していることが起因し、米国政府から強制移住勧告が出されていることに対する祈りのウォークがあって……。

きょん2 ヤマちゃんの?

陽太さん いえ、ヤマちゃんも知り合いですけど、60〜70年代から北米先住民の人権運動に関わっている方たちがいて。
 その流れのなかに、1988年に開催された「いのちの祭り」っていう、葉山で言うと真砂(秀朗)さんたちも関わっている野外の音楽フェスの原形があって、この中心メンバーや関係者の多くがすでに田舎に移住していたんです。
 2000年頃、アメリカで行われていたピースウォークの事務局が日本でも立ち上がったんですが、その方たちの家がピースウォークのサポートハウスになっていたんですね。

 こうした出会いのなかで福岡正信さんの自然農法を知り、福岡さんの「何もしない農法」から、川口由一さんのより実践的な自然農の世界を知ることになって……。そうした自然農の哲学に、当時惹かれた部分がありましたね。

―― 自然農って、ネイティブアメリカンの運動やヒッピー文化と深い関わりがあったわけですね。

陽太さん 「人間は自然の一部である」というポジションに立って、農と向き合っていくということなんですけど、僕自身、自然農を実践していくなかで、土地によって向き不向きがあるということを目の当たりにしたところもあって。
 まず、食っていくための日々の暮らしがあって、土が出来上がるまでの時間があって……。
 たとえば、葉山みたいな粘土質の土地と、もともとふかふかした黒土で、まわりに落葉樹があって、自然に落ち葉が落ちてくるような土地では、実りが全然変わってくるわけです。

 自分が生きるということを軸足にした時、じゃあ、どういう農法を実践するのか? 自然食品店で有機野菜を買っていても、結局、エネルギーを使って運ばれているわけだから、それを買うんだったら自分でやればいいって。
 そこで自分の家族構成と照らし合わせて、どこまで自分の暮らしに実りを返していけるか? チャレンジしたい部分と確かめたい部分があるという感じですね。

―― 自分が置かれた生活のなかの最適解というか……。

陽太さん そうですね、そこは模索しながら。

―― 気持ちとしては、自然農的な方法を大事にしたい?

陽太さん ベースになっているのは自然農とか、それこそ福岡正信さんが語っていたような、なるべく手を入れない自然との関わり方があると思いますが……。
 それがあったうえで、いまの環境のなかで何ができるか? 経済的にどう成り立たせたらいいか? そこを問いながらつくっているということだと思っています。

Note.4

川口由一さん
「耕さず、草や虫を敵とせず、農薬、肥料を用いない」独自の農法=自然農を実践、指導。2023年逝去。


ピースウォーク
ピースウォーク:人権・環境・社会問題などをテーマに、反対運動ではなく祈りやポジティブなメッセージを主軸に徒歩行進する平和運動。

いのちの祭り
日本初の本格的なオルタナティブ・フェスティバルとして、1988年に開催。チェルノブイリ原発事故の影響を受け、「NO NUKES ONE LOVE」を掲げてカウンターカルチャー、エコロジー、ヒッピー文化と結びつきながら、以後12年ごと(辰年)に長野、静岡などで開催している。

ヤマちゃん
山田圓尚さん。7世代先の未来に幸せを届ける「7Generations Walk」代表。


福岡正信さん
「不耕起・直播」を基本に、極力人の手を介さず、自然に任せる農法=自然農法を実践、国内外に広めたパイオニア。2008年逝去。


きょん2 収穫したものを卸してはいないんですか?

陽太さん たまに量り売りとかやっていますが、うちは家族2人だけなので、ほぼ自家用ですね。

きょん2 じゃあ、あまり多くつくらなくてもいい?

陽太さん 「これをやったらつくれるだろうな」とか、「あれをいれればできるだろうな」というのはあるんですけど、数年かけないと学べないことも多いじゃないですか。それって、いくら本を読んでも自分の言葉にならないので……。

―― 実際にやってみたいと。

陽太さん やりたがりなんですよ(笑)。旅をして思ったんですけど、どんなにいいドキュメンタリーであっても、それはあくまでその人が書いた世界であり、景色であり、言葉なので、やっぱり自分の目で見て、体感しないと。

きょん2 体感しないと自分のものにならない。

陽太さん 自分じゃなくなってしまう。そこは頑固なんで(笑)。

―― そこが楽しいということ?

陽太さん いまはそうなんです。でも、たとえば子供が何人かいたら、それはやっていない。なぜかというと、足りない野菜を買わなきゃいけないじゃないですか。
 たとえば、葉山には葉山牛がいるので、たまたま副産物として堆肥が出ますよね。畜産の世界や飼料のことはいろいろと思うこともありますが、それを循環させるのは全然いいと思うので、もし生きるために、ちゃんと野菜を育てなきゃいけないんだったら、利用しているかもしれないですね。
 ちゃんと暮らしの関係性をまわす。それがいまは2人っていう構成なので、まだこういうことが言ってられる、それを自分でわかったうえでやっています。

―― 自分の生活とかリアルなものを前提にしているんですね。条件が変われば、当然そこがまた変わるっていう。

陽太さん 僕のなかでは農業というよりも、畑だったり、家のなかのことだったり、世の中で起こっていること、政治のこともそうですけど、向き合った時、いま自分のなかに出てきたことにどれだけ照らし合わせられるか?
 星野道夫さんの写真展で、鹿の群れが浅瀬の川を渡っている作品に「浅き川も深く渡れ」という言葉が添えられていたんですけど、「本当にこれだよな」と思って。
 小さな出会いだったり、ちょっとした人の所作だったり、いろいろとあると思うんですけど、そこからどれだけのものを汲み取れるか? 汲み取れるものに限界があるにしても、思いを馳せることは、相手の思いやりであったり、その人を知ることだったり、そこにつながっていくんだろうなって。

―― 本当にそうですね。

陽太さん たとえば、家の中のことで掃除の仕方だったり、食器の干し方だったり、誰かがやったちょっとしたことから感じる世界があると思っていて。
 昔は「背中を見て育つ」という言い方だったと思うんですけど、それは暮らしだけじゃなくて、世の中に起こっているすべての現象に対して言えることで、僕たちはつねに何かの目の前に居させられていると思うんですね。

きょん2 それは、古道具を直すような、過去のものをいまに持ってきていることにもつながるような……。

陽太さん そうですね。僕が仕事を通してずっと思ってきたのは、壊されてしまう家に入るとき、必ず一礼するんですけど、それって僕らみたいな甘い世界に生まれ育った人間には到底わからない大変な苦労が絶対あったはずで。
 田畑一つつくるにしても、木を倒して、ちゃんと祈りを捧げて、開墾して、家族で石を拾って、水を引いて、そういうすごい苦労があって、いまの僕らが、そこに用意されて、お邪魔させてもらっているっていう感じがあるんです。
 そこに思いを馳せて、家であったら、人の暮らしを支えるためだけに伐られた木の命に思いを馳せて……。
 すべてのものに感謝の気持ちを持って、自分がすくい上げられるものは限られているんですけど、それでもできる限りすくい上げて、次につないでいくっていう。

Note.5

星野道夫さん
アラスカの自然を舞台に活動した写真家。1996年、逝去。


―― 次につなぐっていうことがカギなんですね。

陽太さん いまのこの瞬間に生きている自分たちの役目は何かと思ったとき、自分がいいなって思ったものを少しでも綺麗にして、次に渡していくことだなって。
 僕は環境畑でずっと来たので、自然環境もそうですし、人の住む環境も、動物たちの環境も、汚くなっていたものがあったらそれを少しでも綺麗にして……。
 どの時代の、どの場所であっても、それを積み重ねていければ絶対に世の中は良くなっていく。大きいことで言えば、そういうことだと思うんですね。

きょん2 時代時代で手を加えるから、まったくそのまま残すというわけではない?。

陽太さん 僕は家に関わる時間が長かったので、たとえば、この家が築百年くらいだとしますね。この家にリフォーム、改修工事を頼まれたら、この家の風格に見合った手の入れ方をするとか、そこはいろいろと考えますね。
 経済成長の時代にできた安普請の、解体してもゴミにしかならないような家であっても、どう手を入れるか、僕のなかでの基準があったりもするんです。

―― つねにいまあるものを前提にしつつ、でも、いろんなケースがあるのかなって思いますね。

陽太さん そうですね。きっとそのなかにはそのまま残したほうがいいものももちろんあるでしょうし、ここを触ったほうが良くなるというものもあるでしょうし。

―― 今日はいろんな話が聞けてよかったです。僕たちがやってくる前の葉山も垣間見られたし……。

陽太さん 葉山で暮らすようになって、僕は楽しいことは十分やってきたなと思っていて。
 いまの農や暮らしもそうですけど、社会問題とか環境問題をいい雰囲気のなかで伝えたい、そうやって自分を含めたみんなで地域を成熟させていきたい思いがあって……。
 3・11の震災が起きる前から、原発の問題なんかも、食事は全部オーガニックにしてもらって、ゴミが出ないような感じで、難しいテーマを音楽とトークをうまく織り交ぜて場づくりをしたり、いろいろとやってきた時もあったんです。

―― 僕らは2013年に葉山に移住してきたので、陽太さんが地ならししされたところに乗っている気がするな。それがいま、少しずつつながってきているような……。

陽太さん 僕だってたかだか20年ですけど……、このカフェ(カフェテーロ葉山)がある海側と僕が住んでいる山側って、風景も、文化も、同じ葉山でも全然違っていますよね?
 山側の文化圏って、ある意味、市街化調整区域だったから乱開発されず、守られてきた気がしますね。

―― 最初は葉山と言えば海という感じでしたけど、10年経って、だんだん山のほうに意識が向かうようになってきたかも。

陽太さん 地元の大先輩、70〜80代のお年寄りが毎日野良仕事して、めちゃくちゃ元気なんですよ。そういう方たちが、上山口の田畑の風景を守ってきてくれたんですよね。

―― 次は上山口へ……。古民家のほうにお邪魔させてください。いろいろとありがとうございました。

陽太さん はい、ありがとうございました。

Note.6

このカフェ(カフェテーロ葉山)がある海側と僕が住んでいる山側